▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


さくらんぼ狩りがいよいよ今月の 22 日に迫ってまいりました。気の早い方々は次の旅先をお話になられています。「皆で海へ行って、新鮮な魚介を食べたいわ」「軽井沢に避暑もいいわね」などなど、夢は尽きません。夢を夢で終わらせないためには日常の努力が欠かせません。ももたろうでは、ご自宅での生活改善もお手伝いできます。ご家庭でお困り事がございましたら、お気軽にご相談ください。

ヒカリを失ってなお、輝き続ける

 私は広島県で生まれ育った。父は醤油づくりの杜氏でやさしい人、母は賢くて強くやさしい人だった。私は 4 人兄弟 2 番目の長女として生まれ、小学校から帰ってくると、かまどにくべる杉の小枝を拾いに、籠を背負って友達と山にでかけるのが日課だった。
 十代半ばで田舎から兄と一緒に呉へ越してきた。兄は海軍工廠で働き、私は軍関連の病院で仕事をするために養成学校へ通い始めた。養成学校を出て実務に就いた頃、先の大戦が始まった。完成間近の施設が焼夷弾で焼けてしまったり、防空壕の中に部屋を作り手術室に転用したりと苦労はしたが、幸い物資は豊富で飢えることはなかった。
 昭和 20 年 8 月 6 日の朝、勤務先である病院の玄関を掃除していた時に、丸く大きな雲を見た。最初は石油タンクが爆発したのだろうと思った。それから 1 時間ほどして、荷台に怪我人を満載したトラックが到着した。当時手術場に配属されていた私は、その後も押し寄せる怪我人の手当に追われたが、幸い私たちの病院は大きな影響を受けずに済んだ。
 夫とは勤務先の病院で知り合い、大恋愛を経て結婚。姑と夫との 3 人暮らしに。昭和 35年に夫が実兄の手伝いをするために上京し、姑を呉に残し私も上京。その後、双子の子供を授かった。30 代になって、家事・育児に追われていたころ、右目が緑内障に。これをきっかけに、姑と義姉が家事の手伝いに来てくれるようになり、子育ても支援してもらった。緑内障は警察病院で手術したものの良くはならず、右目の視力を失った。でも、「左目があるだけで大丈夫だ、頑張れる!」と思っていた。しかし、50 代で左目も緑内障になってしまい、この時ばかりはもうダメだと覚悟した。幸い進行が遅く、最近まで光を感じることができていた。盲目になった今、少々弱気になることもあるが、視覚以外の感覚をフル活用して以前とほぼ変わらず生活できていることを自負している。
 今一番大事にしているのは、家族の絆。二人暮らしをしている娘が朝仕事に出掛ける前、一緒に仏様へ手を合わせることを日課にしている。日中は、ヘルパーさんにお手伝いをしてもらい、“ももたろう” には週 2.5 回通っている。一人になる時間は、娘につながる緊急連絡装置を首からかけて、万が一に備える。今、不自由無く生活できているのは娘とヘルパーさん、そして “ももたろう” のおかげ。特に娘には感謝してもしきれないほどだ。
 “ももたろう”には沢山の仲間がいる。互いに励まし合い冗談も言い合えるので会話も弾む。それに加え、大好きな津軽三味線を聴いたり、伴奏で歌を歌ったりすると気が晴れ晴れとして前向きになれる。私はよく「前向きだね」と言われるが、クヨクヨせずに生きているだけ。自分が元気に過ごすだけでなく、周りも元気でハッピーに過ごせるよう願って生活している。そんな私の座右の銘は『一期一会』。6 年前に亡くなった夫の墓標にも刻まれている言葉だ。