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「女三人寄れば姦しい」と昔から言われますが、“ももたろう” のお客様は現在全員が女性です。話に花が咲き、「余りにも姦しいので、逃げて来ました」という方も。日常生活で話し相手が少ない方、一人暮らしの方も多いので、今後も遠慮なく話ができる“姦しい雰囲気” を大切にていきたいと思います。会話する事は想像以上に脳を使うので、実は最高の脳トレだったりします。一緒に姦しく脳トレしませんか?

「振り返ると、良い人生だった」

 88 歳の時に自宅の玄関先で転び、大腿骨頚部を骨折した。府中病院で手術を行い、リハビリの為に慈恵医大病院に転院。息子から「ちゃんと歩けるようになって帰っていらっしゃい」と激励された。翌日、リハビリのスタッフが「○○さんはもう歳だから、そんなにリハビリを頑張らないで、杖を使って歩けるようになればいい」という会話が聞こえた。杖無しで歩けるように、一生懸命にリハビリを励もうとしていた時に、その言葉はショックだった。毎日既定のリハビリが済んだ後も自主的な練習を続け、人の倍以上頑張った。“メリーチョコレート” 5粒を自分へのご褒美として、自転車こぎや足上げ体操に励んだ。足に重しをつけて歩く訓練は特にきつかったが、終わってもリハビリの先生が来ないため、もう一度最初からやったりもした。入院から15 日目には杖無しで歩けるようになり、病室まで歩いて帰ったのを覚えている。その後も順調に歩調が安定していき、入院から20 日目に退院した。先生からも前例が無いと驚かれた。リハビリは辛かったが、「出来ないと思ったらダメで、頑張ればなんとかなる」「自分で考えて、一歩ずつ進んでいくしかない」と悟った。今となっては良い思い出だ。家に帰ってまずした事は、好き放題に草が生えた庭の手入れだった。
 私は福井県に生まれ、小さい頃に一家で上京、親は東京で米穀商になった。学生時代はキュリー夫人に憧れ、化学の学者になるのが夢だった。女学校卒業後は、立川にある軍の研究所に入り、飛行機の部材に関する研究を行っていた。飛行機工場が集中しているだけに、何度か空襲にあった。アカシアの花が揺れる、爆撃の情景が今でも目に浮かぶ。父が府中に800 坪の土地を持っていたので、戦争末期に入るとそこに15 坪の家を建てて移り住んだ。戦後を迎えてから、8つ上の夫となる人と出会い、結婚。夫は国家公務員で出張や転勤も多く、岡山・北海道・目黒と移り住み、また府中へ戻ってきた。夫との思い出はあまり無いが、そんな夫も私が72 歳ぐらいのときに亡くなった。子供は4 人。一人は70 歳位で亡くなり、現在3 人の子供がいる。一人暮らしの私を、横浜・つくば・横須賀と少々遠いものの、みんなで見守ってくれている。ちなみに、私の女学校時代の夢は、都立大学の教授にもなった息子が叶えてくれた。兄弟全員仲が良く、子供たちが本当に大事にしてくれるのが幸せ。
 自宅の窓を開けると、梅・椿・柿等、木や花に囲まれた生活をしている。何年か前『お庭見学ツアー』と称して、“ももたろう”の皆さんがチューリップや水仙、椿の花を見に来てくれた。自慢は“百目柿”で、干し柿にして食べると最高に美味しい。昨年は120 個以上採れ、息子や娘、そしてお嫁さんまで駆けつけてくれ、皆で一生懸命に皮をむいて干してくれた。これほどおいしい干し柿はなく、お世話になった方々に差し上げている。先日も息子と娘が来てくれたが、「この暑いのに草取りをするなんて!」と、二人からコテンパンに説教された。「もしもの事があったら、どうするの!」と。その後二人して草取りをしてくれたが、帰ったあとに庭を見ると、草をむしっただけだった。一瞬「私だったら根から取るのに…」と思ったが、それほど私の事を心配してくれているのだなと、うれしくて涙がこぼれそうになった。
 “デイサービスももたろう” は、退院後間もなく利用し始め、早8 年になる。今では私が一番長期間利用していて、二番目に年長だそうだ。健康で長生きできるのは“ももたろうでの活動” と、“ももたろうのお弁当” のおかげだと思っている。足がむくむとさすがに杖を使うようにはなったが、まだまだ自分の足で歩ける。現在97 歳。私の気ままな一人暮らしは、もう少し続くようだ。