▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


≪家族会のお知らせ≫ “デイももたろう” のお客様は、現在全員が女性です。最近来所されるようになった方の多くが、ご主人や息子様が主介護者になられています。一人で抱え込まずに、日頃の困り事や悩み事等を話し合えればと願っています。 日時)11 月26 日(土)10:30 ~ 12:00 場所)大東京綜合卸売センター(サントリー隣) 大会議室 ※会場の都合で時間を変更しました。

明日が平和であるために

 両親は沖縄出身で「上等、上等」が口癖の、おおらかだが芯の強い人だった。私は東京都杉並区で、三兄弟の長女として生まれた。父は鉄道省の職員だった為、満鉄へ転属を誘われていたそうだが、東京に残って仕事をしていた。独学で英語の勉強を続けていた、勤勉な人だった。
 思い出すのも嫌だが、女学校在学中に東京大空襲を経験した。大空襲の前から度々空襲があり、空襲警報が流れると、上空には多数のB29 が音を上げて迫ってきた。空襲が無い日も、夜は灯火管制で明かりが漏れないようにし、少しでも漏れていると見まわりの人から注意を受けた。ますます空襲が激しくなると、リウマチで足が不自由な母親が居ては逃げ切れないからと、疎開を考えるようになった。沖縄へ行くわけにもいかず、父を残した家族4人で遠い親戚のいる山梨県南巨摩郡のお寺へ疎開した。慣れない田舎暮らしで、8歳下の妹が汲み取り式の便所に落ちた。冷たい水でゴシゴシ洗ってやったが、トイレを怖がるようになったため、毎回付き添うはめになった。私達兄弟はこのお寺から現地の学校へ、列車に乗って通学した。母はお蚕さんの世話を手伝うようになったが、なかなか食べ物は手に入らなかった。育ちざかりの時期だったが、常に空腹で、桑の実を食べたり水を飲んだりして空腹を和らげた。地元の人たちからは「疎開の衆、疎開の衆」と呼ばれ、馴染むことも出来なかった。東京へ帰ってきたのは、戦争が終わってからだ。家の周囲は焼け残り、ほっと力が抜けたのを覚えている。元の女学校に再び通いはじめ、半数は戻ってきていた友達との再会を喜んだ。近くに双葉学園や暁星学園があり、電車通学は楽しかった。
 戦後も食糧難は続き、父は遠方まで買い出しに行く事があった。ある日、千葉へ買い出しに行き、米などの食料が一杯入った、大きな荷物を担いで帰っている時のことだ。近所にある交番のお巡りさんに「その荷物を見せなさい」と言われ、全部取り上げられたそう。70年経った今でも、あの荷物はどこに誰がどうしたのだろうと考えると、悔しくてたまらなくなる。
 女学校卒業を前に、就職を希望する友達は学校の斡旋で就職していったが、私は進路を迷っていたので、就職先が決まらないまま卒業した。職業紹介所へ通い、運よく『国家地方警察本部刑事部鑑識課指紋係』に採用された。犯罪者の指紋を顕微鏡で観察し、形に応じた番号を付け、整理するという集中力と根気が必要な仕事だった。職場で沖縄出身の主人と出会い、23歳の時に結婚。新居は公営住宅に入ったが、母の勧めもあって東京都の助成金を活用し、府中の晴見町に一軒家を購入した。子供は娘1人と息子2人。子供が大きくなり手が離れると、都立府中病院の研究室に勤務するようになった。毎週火曜日、40名のドクターが集まる“診断会議” がある。資料をその日の朝に出してくるドクターも結構いるなか、資料・テーブル・映写機等の準備をひとりでこなした。
 主人の死後二十数年間は一人で暮らしていたが、今年の4月から長男が東京勤務になり、一緒に住んでくれている。息子は朝早く夜遅いが、夜誰かが傍に居てくれる安心感がある。皆さんから「この頃、元気で綺麗になったね」と言われるのは、安心して生活できているからかもしれない。
 85年生きて来て一番良かったことは、戦争や空襲が無い平和な時代に過ごせていること。物が豊富で、食べ物に困る事のない時代だが、裏を返せば食べ物を粗末にする時代ではないか。私は今でも食材を一切無駄にしない。バナナの皮や缶詰の汁、米粒ひとつも捨てないようにしているため、若い人との生活はできないと思っている。でも、もう少し物を大切にするようにしないと、日本は悪い方向へ向かってしまう。こんなに幸せな時代に、戦争をしてまで物を奪い合うのはどうかと思う。
 主人の遺族年金で生活でき、病気もせずに居れる今は「上等、上等」。両親の口癖だったが、私もこの言葉が好き。