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12/10(土)にクリスマス会を行いました。9 割近い利用者様が参加して下さり、短時間でしたが楽しい一時を過ごせました。今年の作品展とクリスマス会は、広い場所で一緒にする予定で準備を進めています。本年も“ももたろう” を、どうぞよろしくお願いいたします。

士族の生き方

 私は墨田区向島で士族の長女として、父が45 歳、母が20 歳の時に生まれた。実家は代々呉服屋を営んでいたが、士族の商法で上手くいかず、私が生まれた頃には洋服屋になっていた。父は麻雀店や玉突きのホールなども経営し、幼い頃は客に紛れて遊んでいた記憶がある。私が引込思案で無口だったためか、5 歳から日本舞踊の先生を家に呼んで習わされた。父は週末になるとデパートや行楽地へ連れて行ってくれ、洋服も父が選んで買ってくれた。時折、父は私をおぶって座敷に連れて行った。綺麗な芸者さんと遊んでいるうちに、父は奥へと消えて行き、しばらくすると戻ってくる。当時は芸者さんと遊んだ幼心の思い出しかなかったが、今思えばそういうことか、と。母は私を連れて行くのであれば、どこへ行っても小言を言わなかったのだろう。
 私が小4の時に戦争が始まり、高射砲のレンズを生産する軍需工場経営に手を広げた。元々父から「士族の家なのだから」と、毎朝5 時には起こされており、工場も7時から稼働していた。自宅兼工場には職人さんや、その下働きの小僧さんの他にも、お手伝いさん3 人に、丁稚奉公で子守をする子も何人もいた。家族は下に実の兄弟が5 人いたのに加え、戸籍載らない兄弟も何人か居り、とても賑やかな生活だった。父は「職人さんや小僧さん、お手伝いさんは、うちの宝だよ」と、大切にしていた。職人さんも「ヘタなサラリーマンより給料が良い」と笑い、配給ではなぜか肉の塊が届けられた。3 月10 日の東京大空襲で、工場兼自宅が全焼した。一晩で10万人が死んだと言われる惨禍で、家族はちりぢりに裸足で逃げた。翌朝には家の周囲にも死体の山ができていた。隣の家は子供を何人も亡くしたそうだ。我が家は全員無事だったが、母は「肩身が狭い」と言っていた。私たちは父を東京に残し、新潟の母の実家へ疎開した。父は焼け跡に家を建て、後にレンズ工場を再興させた。
 一番下の弟は、父が61 歳の時の子であった。尋ねて来た人が「お爺さんいる?」と言い、「お爺さんなんていない!」と大変怒った事を覚えている。父はオシャレだったし、粋だった。25 歳も年の違う父母であったが、仲は良く、喧嘩をしている姿は見たことも無かった。その母は、42 歳にして脳溢血で亡くなった。私の花嫁姿を見るはずの、前年の事だ。私は女学校卒業後の2年間、花嫁修業を一応全部したが、どうしてもお勤めがしたいと父に頼み『大日本機械』という会社に勤めた。海軍兵学校後に立教大学を卒業した男性上司はそろばんが苦手で、仕事を手伝うことが度々あった。お礼にと食事をご馳走され、一緒に映画を見た。別れ際の錦糸町駅構内で「じゃあ、また」と握手を求められ、掌を合わせた。引込思案だった私は、男性に触れるのも初めてで、「もうこれで結婚しなければならないのか」と思った。程なくして母が急逝し、上司は母のお葬式に来てくれた。その時叔母から「あの人と結婚するならいいよ。誰もいないなら、結婚する人は決めてある」と言われた。職人さんと結婚させるつもりだったようだ。
 数か月後、私は上司の男性と結婚した。私が22 歳、主人が24 歳の時だった。下町の自宅に親戚一同が集まり、結婚式を挙げた。花嫁衣裳のまま近所50 件にあいさつ回りに行き、夜になると父や兄弟がタクシーで帰ろうとしていた。「私を置いて行かないで」と声を掛けると、「お前は嫁に来たんだよ」と笑われた。今まで食事を作ったことが無く、花嫁修業でも調理は習っていなかった。そのため新婚初夜は空腹で過ごし、主人と二人でコソコソと台所まで行き、残っていたサツマイモの煮物を1つ摘まんで食べた。朝になると近所の方から差し入れが入ったが、“これから自分で炊事しなければならない” という事実を突きつけられ、新婚旅行は中止してもらった。主人は翌年に会社を辞め、小学校時代の友人と会社を興した。新聞の発送を業務とする会社で、新聞の折り機をフランスから取り寄せていた。姑は結婚前に亡くなっており、結婚後暫くして舅との同居生活が始まった。主人は、仕事・仕事で家に帰らない日も多々あったが、舅が子守をしてくれて助かった。何事も物事をあまり深く考えないから上手くいったのかも知れない。舅は優しく私を“ちゃん付け”で呼んでくれた。私は身体が弱かったこともあり、主人は家政婦さんやお手伝いさんも雇ってくれた。近所の方も色々と世話を焼いてくれ、私が子供を風呂に入れた記憶が無いほどだった。3 人目の息子が生まれるのを機に、近所の方の勧めで自宅を購入することになった。府中本町駅近くで売り出された土地に当選し、三兄弟の子供と舅と夫婦の6 人で移り住んだ。よく働き、よく遊んだ父も82 歳の時に風邪から肺炎にかかり、亡くなった。
 主人は81 歳まで社長として働き、退職した。時を同じくして、私がトイレで倒れた。頭を切り、救急搬送された。その時の検査で脳腫瘍が見つかり、すぐに摘出手術を受けた。3 ヶ月半入院したが、腫瘍を早目に発見することができ、ついていた。私が入院している間に、大地震に備えて古くなった府中本町の家を売り、主人と三男の嫁が、今の多摩川べりのマンションを見つけてきてくれた。退院し、初めて帰る家からは、富士山が綺麗に見えた。
 “ももたろう” に通いだして5 年、今は週3 日通っている。父や主人の言う通りに生きてきた人生だったが、主人に休めと言われても行く、大切な場所だ。思い返すと、苦労したこともなく、あっという間の楽しい人生だった。日本舞踊・社交ダンス・パソコン等、やりたいことは何でもし、主人は私のことを『すっとび籠』と呼んだほどだ。現在85 歳でまだまだ元気だが、「いつ死んでも心残りは無い」。良い人々に恵まれた、最高の人生だから。