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暑い日が続きますが、7月は皆さまお元気に来所して下さいました。今年も8月14日(月)~16日(水)までデイは夏休みをいただきます。その間、お元気にお過ごしください。年末の12月2日(土)は、作品展&クリスマス会をします。今から準備をしつつあります。今回の習字は画仙紙に『家康公教訓』を行書体で書いています。

波立つ海のように

 私はモッポという朝鮮半島南端にほど近い街で、7 人兄弟の長女として生まれた。両親は彫刻師の伯父さんを頼って朝鮮へ渡り、家具の制作販売の会社を立ち上げていた。父は手が器用で、後に『うどん作り日本一』にもなった人。父の作る家具は大変評判が良く、財をなした。三階建ての家を建て、一家で何不自由なく暮らしていた。大戦の真っただ中でも朝鮮は割と平和で、私も日本の高等女学校に通い続ける事ができた。殆どが日本人生徒だったが、数人の裕福な朝鮮人も一緒に学んでいた。半日は学校で勉強し、残りの半日は稲刈りや田植えの勤労動員に動員されていた。父の兄が大きな建設会社を経営しており、食べ物が乏しい時期には、肉や魚を分けてくれた。どんな時代も、ある所にはあるのだ。私が女学校の4 年生、16 歳の時に終戦を迎えた。そのとたんに朝鮮人の態度が変わり、日本人は次々に家を追われ、荷物も盗られるようになった。沢山の日本人が住んでいたモッポの街も、あっという間にほぼ全員の日本人が、家や財産を全部捨てて内地へ戻っていった。父は古くなった19 トンの小さな船を買い取り、1 歳の妹を含む親族と、近所の方の総勢50 名を乗せて朝鮮半島を出た。終戦から3 週間経ってはいたが、機雷が残る日本海を全くの素人である父が操船した。右へ左へと機雷を避けつつ、祖母の家がある山口県大島を目指す近くて永い船旅だ。転覆を覚悟するほど海が荒れ、福岡県の玄界島に一泊避難したが、それ以外2 週間もの間、波に弄ばれる狭い甲板で、念仏を唱えながら過ごした。途中で親類を亡くしたが、家族8 人は何とか大島に着いた。頭にはシラミが沸き、「海賊が来た」と言われるほど酷いありさまだった。
 大島では一人で生活していた祖母の家に身を寄せ、行く当ての無い3家族と共に共同生活を始めた。収穫後の芋畑から茎を拾い集め、当座の食糧難を凌いだ。父は農協に仕事を見つけ、兄は山口大学へ、私も地元の女学校へ編入し、卒業までの半年間、3 里(12km)の道を毎日自転車で通った。卒業後は母の農業を手伝いながら、洋裁・和裁・生け花・舞踊とお稽古をさせて貰った。主人となる人は、同じ村にある、大きな作り菓子屋の三男坊。両親や職人たちは忙しく、主人は小さい頃からカマボコばかり食べさせられていたそうだ。その為か体が弱く、小学校は休みがちで、中学校は一年留年したほど。大学を卒業したものの、その後1年間病気療養していた。定年の頃の検査で判ったのだが、主人はC 型肝炎を患っていた。島に医師は一人しかおらず、注射針の使いまわしで島民に感染したそうだ。虚弱を理由に親は結婚を反対したが、主人の積極さや優しさに惹かれて結婚。主人26 歳、私が23 歳の時だ。結婚後の主人は不思議と元気になり、虚弱体質は治ってしまった。主人は石炭や鉄鋼関連の仕事に就き、九州・山口・名古屋・東京と10 回近く転勤を繰り返した。娘たち2 人も転校を繰り返し、辛い思いをしただろう。
 40 歳ごろの転勤で東京の地を踏んだ。主人は、友人との新会社設立の話を信じて退職したが、結局上手くいかずに職を失った時期がある。その時48 歳だった私も、生活費の足しにするべく、近くのスーパーでパートを始め、65 歳まで続けた。定年後は主人に連れられて海外旅行へ頻繁に行き、ヨーロッパ各国やカナダ、ハワイ、韓国など10 カ国以上を旅した。主人は写真に凝っていて、その時々の写真が懐かしい。主人は一人で中国からパキスタンまで旅した事もあるほどの旅好きだった。歳の近い母と私は、ゆっくり国内の旅行を楽しんだが、母は5 年前に100 歳で亡くなった。時を同じくして主人が86 歳の時、段差で転んだ際に頭を強く打ち、その夜に痙攣を起こして救急搬送された。それ以来、人が変わったように怒りっぽくなり、椅子を振り回して暴れたり、ひどい暴言を吐くようになった。また、急に家を飛び出して行って迷子になり、お巡りさんには何度もお世話になった。私はストレスから顔面神経痛や帯状疱疹になり、治療のため半年間毎日注射をした。主人は1 年間の入院を経て、一昨年病院で息を引き取った。以来一人暮らしの寂しい日々を過ごしていたが、娘たちが何かと気にかけてくれていた。ある日の電話で「言葉が全然出ていないよ」と娘に言われ、もう一人の娘がすぐに病院へ連れて行ってくれた。前日に転んで顎を打った際、脳内に出血があったのだ。発見が早かったため、投薬でほとんど回復した。娘からの勧めで“ももたろう”に通うようになった。最近は週に1 度娘たちと出掛け、“ももたろう” に週3 回通っている。仲間とのお喋りが生き甲斐で、同じ大島に暮らしていた方と出会えた事も嬉しい。8 月で米寿を迎えるが、“ももたろう” にも、米寿の方が多い。気の合う仲間との押絵や習字、アウトドア等、楽しく活動させてもらい、今が一番幸せ。“波瀾万丈” の人生だったが、今はこうして落ち着いている。娘たちに面倒を掛けないよう、今の生活が続く事を願っている。