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10・11・12月生まれの方々の誕生を、12 月25 日(月)の夜6 時~ 8 時まで“ももたろう” にてお祝いしました。「誕生会なんてしてもらった事が無いわ」「いつもと違って楽しかったわ」「料理もケーキも美味しかったわ」と、嬉しい感想でした。今年の誕生会の企画も今から色々と考えています。本年も“ももたろう”をどうぞ宜しくお願いいたします。

病床の母、添い遂げた父

 生まれは静岡県静岡市。富士山が良く見える海沿いの地で、鉄工所を営む父と母の元に産まれた。戦時中は母の実家が大きな茶畑を持つ農家で、山の中腹にある大きな家に身を寄せた。母は稀に見る背の高い人だったが、7人子どもを産んだからか体が弱く、寝て過ごす日々が多かった。そのため父は母の看病に追われ、姉と私がおかゆを作り、弟妹の世話も母親代わりにしていた。お手伝いさんも居たが、6人兄妹の大家族。学校から帰ってくる兄妹に「勉強しなさい!」とか「皆がやっていることはしなさいよ」と檄を飛ばす日々。中学から私立の一貫校へ中学・高校・短大と通わせてもらい、裕福なご令嬢に囲まれて育った。学校から帰ると家事や世話に追われ、友人と外へ遊びに行く暇などなかった。だから友人達とのギャップを常に抱えていたが、支えてくれる良い友達もたくさん出来た。その後も母はほとんど外に出ず、いつも家の中で過ごしていた。そんな母を父はとても大事にし、母も父を常に立てていた。喧嘩している姿は見たことも無い。父は大変仕事熱心で、寝る暇も無いのではと思うほど、仕事や家庭・教育に熱心で優しい人だった。経済的にも大変だっただろうが、弟たちも全員大学まで行かせてくれた。卒業後は洋裁学校に進み、洋服は自分で作っていた。そういえば何年か前まで娘と一緒にパッチワークの教室にも通っていた。
 洋裁学校卒業後に就職、その会社で主人と出会い、グループで山に登ったりして交際を深めた。私より1歳年下で、体が大きく気さくな人。主人は4人兄弟の長男で、下の3人も体が大きくハンサムだった。義理の父は戦死したため、義理の母一人で美容室を切り盛りしていた。結婚は23・4歳の時。父親の居ない主人を父が可愛がってくれ、一緒にお酒を呑むのを楽しみにしていたっけ。結婚後は主人と2人で上京、今までの経験を生かして、印刷会社を新宿に立ちあげた。主人は仕事や接待で夜遅く帰って来る日々、私は子育てに専念した。娘が小学生の時に今の家に転居し、以来住み続けている。父の献身的な世話もあり、母は75歳位まで生きた。それまで健康的だった父だったが、母の後を追うようにして息を引き取った。
 私の子どもは、娘1人と息子2人。息子2人は神奈川県に家庭を持っている。今は主人と娘、孫2人で生活している。娘の主人はイギリス人で、今はイギリスに行っている。高校生の孫は、将来プロサッカー選手になりたいと頑張っているが、ハーフで背も高い為、スカウトされそうになったことは一度や二度ではないそうだ。主人は今でもゴルフが趣味で、国内外のゴルフ場によく行っている。
 私は今“デイサービス ももたろう” に週3日通っている。それでも最初は「なぜ私だけ行かなければいけないの」と、行きたくなかった。その為1カ月以上も主人が一緒に来て見守ってくれた。今では「デイの日はとても嬉しそうな顔をしているね」と、愛犬と一緒に見送ってくれる。愛犬も車が来ると「一緒に行きたい」と言わんばかりに乗り込もうとしてくる。いつか“ももたろう” に連れて行ってあげたい。
 “ももたろう” には仲の良い何でも話せる友達がいるので、行くのがとても楽しみだ。今までの人生を振り返ってみると、良い人達と巡り合えていつも冗談を言って笑っていられる、とても楽しい人生だ。私には、人付き合いについて子供の頃からの信念がある。“仲良くしないと、お互いにつまらない人生になるだけ” だ。不満を口にしても人生は絶対に良くならないし、喧嘩や口論で相手を負かしたとしても、それはお互いに負けでしかない。夫婦と言っても所詮は他人。言っていい事と言ってはいけない事は絶対にあるし、愚痴や陰口で憂さ晴らしをするのではなく、相手と一対一で話し合ってこそ浮かばれる。だから、子供の前で喧嘩している場合ではなく、子供が居ない時に本音を語り合える関係を維持する事が大切。私は主人を尊敬しているし、主人も私の事を認めてくれている。その信頼関係が心地よい。父や母も、きっと同じ信念を持っていたのだろう。今でも“主人より上には絶対に出ない” と自分に言い聞かせているし、良いところを見つけては口に出して伝える事を心掛けている。
 人生一人では生きられないのだから、お互いを良くするために、できる事をするべきだ。以前、ご主人と上手くいかないとぼやく友人に言った。「できないのではなく、やらないだけ。子供が一番見ているよ」と。