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3月29日(木)午後6時~8時まで、1・2・3月生まれの方々の誕生会を“デイももたろう” にて行います。同日の29 日と30 日はTAMA 介護福祉フエアがル・シーニュ5・6 階で開催されます。認知症研究で著明な先生や、認知症当事者が登壇される講演も。また、4 月17 日(火)はとても素敵なお宅をお借りして、家族会を開催します。ご期待下さい。

別れと苦労の先に

 私は三重県の小さな漁師町、須賀利町で生まれた。半島の湾にある小さな集落の家で、8 人兄弟の末っ子として生まれた。現在90 歳。若くして戦死した兄もいて、私以外の兄弟は全員亡くなった。しかし一番初めに亡くなったのは母だった。母は私が2 歳の時に病気で亡くなった。だから、“おかあさん”の優しさに触れたことは無い。母の代わりに父の姉にあたる叔母さんが、毎日私達兄弟の面倒を見てくれた。叔母さんは、奈良で旅館を経営していたが、仕事を辞めて10 人以上の食事を毎日作ってくれた。叔母さんは草履を作っては売り、うどんを作っては売りと、休む暇なく仕事をし、私も姉と一緒に果物を売ったりした。料理も上手で、新鮮で美味しい魚料理が食卓に並んだ。というのも父は漁師で、お酒とお祭りが大好きで、陽気な人。私は恥ずかしくて好きではなかったが、盆踊りや大きな傘を持って踊る祭りに、父は嬉々として参加していた。母は居なくとも明るい家庭で、末っ子ということもあり姉たちが良くしてくれた。そのため寂しい思いはせず、すくすくと育った。今の私を見て、「がっちりとした体格ですね」と、必ず言われるほど丈夫なのは、この環境のおかげだろう。
 最初の結婚は20 歳の頃。姉の嫁ぎ先はいつも7 ~ 8 人が下宿している大きな家で、その中から良い人を紹介してくれた。大人しく優しい人で、子供も2 人出来た。だが子供達がまだ小さい頃、主人と2人の子供を病気で亡くした。次に結婚した人も姉の紹介。大きな漁船を持っている人で、漁に出ると1~ 2 カ月は帰って来なかった。大人しく優しい人だったが、結核になり療養所に入った。そこで世話をしてくれた看護婦さんと仲良くなり、結局は離婚した。その後、三度目の結婚。その人とは一緒に魚屋を興した。魚屋と言っても小売りではなく、仕入れた魚を裁き、加工して卸す仕事。他にも、山へ行って炭作りもした。仕事の合間にミシンや編み機を買い、内職にも精を出した。夫婦二人三脚で朝から晩まで仕事をこなし、とても忙しかったが毎日充実していた。子供も2 人出来、母親の愛情を感じてもらえるように最大限の努力を重ねた。この頃は本当に一生懸命に、必死に生きていた。
 ずっと主人と魚屋を続けていたが、20 年前に主人を癌で亡くした。その後は近所の方々に支えられながら、89 歳まで一人での生活を続けた。1 年半前に長女が府中の家に呼んでくれ、嬉しかった。長年住んだ家を畳み、多摩川近くの長女の家へ居を移した。家の整理は全部自分でして来た。捨てる物も多かったが、最後に自分で出来た達成感がある。主人が残してくれた家は、今“後家さん” に格安で貸している。将来的にこの土地は市が買い取り、公園か何かにするらしい。
 府中に越してきてすぐに、マンションの階段で転び、膝を骨折してしまった。坂の多い土地に住んでいたため足腰は丈夫だったのに、歩行器なしでは歩けなくなった。治療後すぐに“デイサービスももたろう” へ通うようになった。最初は田舎者だから馴染めるか心配していたが、皆良い人ばかりで毎回楽しく通っている。押絵やパズルなど、その日あった事を長女に報告するのが日課となり、楽しい時間だ。最近は足が悪くなって行けていないが、マンションには大浴場があり、皆と一緒に入るお風呂が大好きだった。体調を崩した時には、長女が毎日やさしく清拭してくれた。長男は桑名市で船乗りをしていて、お墓を守ってくれているのに「お金が無くなったら言って」と。二人とも大変優しくしてくれる。辛い時はいつも子供たちの優しさで乗り越えられた。今はひ孫もいて、もっと幸せ。
 私と結婚してくれた3 人の男性をはじめ、知りあった人はみな良い人ばかり。別れも多く、苦労の多い人生だったが、なかなかの人生だと思う。くよくよしても仕方がないし、愚痴をこぼしても答えは返ってこない。全てに「ありがたい」という気持を持って、前向きに生きている。
 辛くとも、生きていかねば。