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4月17日に家族会を開催しました。参加されたご家族は娘様ばかりでしたが、「他の方の話が聞けて良かった」「思い切り話が出来たので、すっきりしました」等々、美味しいババロアを頂きながら、話しが弾みました。次回は8 月頃に開催する予定です。お悩みのある方も、そうでない方も、是非一度参加してみて下さい。 

誰かを想い、誰かのために

 生まれは茨城県鹿島郡波崎町。鹿島灘と利根川に挟まれた半島状の細長い地形で、利根川に面する専業農家に生まれた。7 人兄弟の2 番目、現在83 歳。近所に海軍航空隊の養成基地があり、海軍に下宿先を提供する家庭が多くあった。わが家も私が幼い頃から、海軍の軍人さん10 名程がいつも下宿していた。家が大きかったので、母屋を下宿に使ってもらい、私達はかまどの傍の部屋で寝起きしていた。軍人さんと一緒に歌った歌を今でも覚えている。軍人さん達は1カ月単位で交代していき、毎月のようにお別れの記念写真を撮っていた。
 小学校入学と時期を同じくして先の戦争が始まり、終戦は5 年生の時。食べる物には困っていなかったが、小学校時代から体が弱く、喘息発作や心臓が悪い事もあり、朝会の時は何度も真っ青になって倒れた。先生が飛んできて保健室に運び込まれる、いつもこの繰り返しだった。運動会でも走ったことが無い。小学校時代はほとんど勉強しなかった、というより出来なかった。空襲警報が鳴ると机の下や学校の防空壕に入って空襲をやり過ごす日々。海軍の養成基地を目標にした爆撃も多く、戦争末期にはさらに激しくなった。下宿する軍人さんは一段と若くなり、これまでと違い、一泊だけして戦地へ向かうのだという。皆若いのに、バナナなど当時は貴重で高価な品を、手土産として持ってきてくれた。実家が遠いために実家には帰れず、最後の外泊をわが家で過ごした、若い航空隊員達。翌朝には特攻隊員として遠方へ向かっていった。それでも、悲観する人は一人もいなかった――。信州への疎開が決まっていたが、疎開直前に終戦を迎えた。戦後は開拓民として、砂地でサツマイモを育てた。「人の命を助けたい」と、姉は日赤の看護師になった。私は中学校卒業後、進学せずに花嫁修業をし、農繁期だけ実家の農業を手伝った。他の時は洋裁や和裁、生け花を千葉の佐原や銚子まで習いに行った。
 20 歳の時、小岩の叔父を頼って上京。亀戸の会社社長宅でお手伝いさんとして働くようになった。子守や、若い社員の朝・昼・夕のご飯も作った。この会社に勤めていた人と23 歳の時に結婚。主人は10 歳年上で、私は体が小さかった事もあり、子供のように可愛がってくれた。私を「マサ子」と呼ぶ、優しい人。その後主人は独立し、家で建具販売の仕事を始めた。その頃日曜大工が流行っており、部品や金具をパックに詰めて売っていたのだ。田舎の生活を知らない主人は、私の田舎へ度々遊びに行き、親類が集まってワイワイ騒ぐのを楽しみにしていた。しかし、お酒好きが災いしたのか、肝臓病を患い60 代で亡くなった。主人が亡くなって店を畳むと、取引のあった銀行の支店長に声を掛けられ、銀行員として働くことになった。当時、銀行員は行内で昼食を食べる規定があったため、行員さんの昼食を調理する仕事だ。献立から買い付けまで一人で全部こなし、多い時は40 名分の食事を作っていた。若い人が多く、4 割は女性の職場。若い人に囲まれた職場は楽しく、社員旅行は良い思い出だ。職場結婚も多く、女性行員さんの恋愛相談にはよく乗ってあげた。この仕事は60 歳の定年を超えても嘱託で数年働き続け、その後ヘルパーの仕事に就いた。当時のヘルパーは資格が無くてもできる時代で、電車に乗って都内の色々な所へ働きに出掛けた。皆に喜ばれ、人とのふれあいが楽しかった。
 78 歳まで仕事をしたが、3 年前に心臓が悪くなり入退院を繰り返した。結婚して二人の子宝に恵まれてからは元気に過ごしていたものの、年齢を重ねるうちに再発したようだ。この頃から体調を崩しがちになり、家から出ない日が多くなった。ケアマネジャーさんに勧められ、去年から“デイサービス ももたろう” に通っている。自分から話をする事は少ないが、家に閉じこもっているよりも、ワイワイ賑やかな場所にいる方が、性に合って心地よい。“ももたろう” からヘルパーさんも家に来てくれ、皆さんに助けられながら楽しく生活している。私が結婚すると、すぐに上京してきた妹二人も近くに住んでいて、何かあると飛んで来てくれる。洋裁や和裁、食事作りもほとんどしなくなったが、その分今は呑気に生活している。このまま平和に、今の生活が続いてくれることを願っている。