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10月からの新しい活動として『手のひら健康バレー』を指導して頂いています。指導者は、考案者であり元NECバレー部の監督をされていた方。大変優しい言葉かけで皆様和気あいあいと“笑顔で”楽しまれました。椅子に座ったままプレーするバレーボールで、転倒の危険も有りません。将来的には市内の他のデイと試合が出来たらと考えています。

親の背中を見て育ち

 父は日本の大学を出て、満州で国家公務員として税関の仕事をこなし、シナ語も出来た。母は、幼少のとき、満州で成功していた親戚のところへ養女として満州に渡り、満州で女学校に通ったそうだ。父と母は満州で出会い、結婚。私は3人姉妹の長女として満州で生まれた。鉄骨3階建の国家公務員官舎に住み、ほぼ日本人が通う国民小学校に通っていたため日本語しか喋れなかったが、何不自由なく生活できていた。母は旧家の出だったらしく、見るからに品の良い人で「女の子は良妻賢母になるため、お花やお茶を習って女らしく」という言葉が常。「お行儀よく」「お品よく」といつも言われながら育った。父は「女の子も大学を出るべきだ」と常に言っていて、二人とも大変教育熱心だった。母は、私の話をよく聞いてくれ、毎日絵本を読んで聴かせてくれた。字が読めるようになると一人で本を読むようになり、そのお陰か読書は大好きになった。大学まで行くのが当たり前と考えていて、大学卒業後は学校の先生になる夢を持ち、とても幸せに育った。
 終戦は小学校の3年か4年の時。役所の仕事をしていた父を満州に残し、大人が“闇船” と呼んでいた小さな引き揚げ船で、母と、親戚のお兄さん、3歳年下の妹、生まれたばかりの妹の5人で本土を目指した。しかし途中で船が座礁し、本土に辿り着くまでにはずいぶんと時間が掛かった。ようやく、山口県の周坊大島にある母の実家に身を寄せた。しばらくして父とも合流したが、父は仕事の都合で単身赴任となった。私も現地の小学校に編入したが、標準語を喋る私は、田舎の学校では浮く存在。なかなか馴染めずに周囲との壁を感じていた。日本での生活が親子揃ってほとんど初めてだった事もあってか、母は43歳の若さで亡くなった。1番下の妹はまだ9歳だった。
 父は、小学生の子のためと、母の死後後妻を貰った。義母は実母とは全く異なる人柄で、多感だった時期もありよく衝突し、父もその事で悩んでいたようだ。義母は「女に教育は要らない」との持論を持っており、父は「子供は母親の言う事を聞くものだろう」と、大学進学に消極的な態度を取るようになった。大学に行くために勉強もしたし、学費の足しにするために、父の知り合いが経営する大きな楽器店でアルバイトもした。父は仕事も出来、娘の教育にも熱心で大尊敬していたが、裏切られた気分だった。人生を狂わされたように感じた私と妹は、父を許せなかった。あれだけ信頼していた父の事を恨み、激しく衝突する事もあった。
 結局、大学進学は親の支援無しではできない事と諦め、高校卒業後は義母との生活から逃れたいがために、アルバイト先の楽器店に就職、会社の寮に入った。音楽好きが高じレコード売り場を任されるようになり、25歳の時に職場で今の主人に出会う。同い年の主人はピアノの調律師を目指しており、会社の紹介で浜松にある調律学校に入った。主人が学校を卒業して帰ってくるまで数年待ち、結婚。29歳の時に一人娘を生んだ。その後、世田谷・杉並・府中と移り住み、現在も家族3人で生活している。
 娘から見ると、「お母さんは、お父さんの言う通りにハイハイと、何でもしてあげている」「完璧な主婦をしている」といつも言って、父親にくってかかることもある。考えてみたら、私の父は「尊敬できる絶対偉い人」、実母は「父の言う通りにする人」で、絵に描いたような夫婦だった。二人の後ろ姿を見ながら生活をしていたので、自然とそうなったのかもしれない。とは言っても、誰に似たのか、時には主人とやり合う事もあり「手が付けられない」と思われているのか、最近はすぐよそへ行ってしまう。それでも3人での生活は、心安らかに満ち足りている。何をしていても幸せを感じられるのは、主人が今もなお調律師として仕事を続けてくれているお陰と感謝している。
 現在83歳。先月の10月半ばから“デイサービスももたろう” を利用しているが、もっと昔から来ているような気がする。他にも半日型のデイを1日、通院も週3日行くため、忙しくて家の事ができていないのが辛いところ。それでも、お蔭様で生活のリズムができ、とても快適な生活が送れている。大変幸せ。