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令和が始まりました。3 名おられる大正生まれはの方に、これからしたい事を聞きました。◆「 世界旅行は殆どしたし、日本旅行も北海道から九州まで全部の県に行ったので、これからは100 歳まで元気に過ごせるように努力したいです」(大正15年生)と。【見た目年齢= 身体の年齢】と感じるお若い方で、80 歳位にしか見えません。ビバ!大正!!

南の島を想う時

 生まれは杉並区和泉町、最寄り駅は代田橋。東京生まれ、東京育ち。兄弟は4人、姉・兄・私・弟で、92 歳の姉と、87 歳の私が残った。父は警視庁に勤める警察官で、家にはあまり居なかった。全てに厳しい人だったが、辛いということもなく家族は円満だった。戦争中は父の実家がある福島に、弟と疎開した時期もあったが、大変な思いをした記憶は無い。学校を卒業すると、日動火災の事務員として働きはじめた。勤め先が有楽町の日劇前にあったので、日劇や宝塚へは随分とよく行った。日劇でシャンソンに出会い、この時からシャンソンが好き。
 主人は結婚前から定年まで、赤坂・東宮御所に勤め上げた皇宮警察官。偶然にも父親と同じ警官だったため、普通と少し違う生活にも慣れたものだった。娘と息子を授かり専業主婦になるが、子供たちが大きくなって余裕ができると、私は東京駅で競馬新聞を売店に配る仕事を始めた。新聞や雑誌の束をたくさん持って走るように配り歩いた。主人が好きな競馬の新聞が、タダで手に入るのも良かった。金曜と土曜の週二日間だが、かなりの運動量になった。10 年ぐらいは働いただろうか。
 主人は定年を迎えると、趣味を謳歌していた。趣味の俳句は度々読売新聞に掲載され、好きな競馬にも毎週通っていた。現役時代から毎日トレーニングをしていたが、退職後は「体がなまる」と、現役時代より厳しく取り組むようになった。ダッシュで2時間走ったり、柔道をしたり。自分で作ったコンクリート製の器械を使って、毎日毎日激しいトレーニングもしていた。主人との一番の思い出は、定年後毎年行ったハワイ旅行。国内やその他の海外旅行は、ハワイに行きたいが為に全く行かなかった。ハワイでの主人は、1日中海で泳ぎっぱなし。私はきれいな空や海を見ながら、海岸をゆっくり散歩した。今でもあの風景が目に焼き付いている。
 60 代半ば頃だっただろうか。数年だったが、“年取った自分はどうなるのか” 勉強のつもりで、ヘルパーの仕事をした。一番印象に残っているのは、寝たきりのおばあさんから何度も何度も「あそこにある紐で私の首を絞めてくれ!」と懇願され、「ああはなりたくない」と痛感した。「あの紐は細いから、切れちゃうよ。もっと太い紐を持ってきてあげる。」と返すと、笑っていた。主人は対照的だった。私が78 歳の時、夜中に主人が叫んだ。「救急車を呼んでくれ!」。救急隊が駆けつけた時、心臓は止まっていた。あまりに激しい毎日の運動が祟ったのだろう。生前、主人は「義理の葬式はしなくていい、医療の為になるなら」と、“検体” を決めていた。主人の希望通り葬式はあげず、代わりに東京医科歯科大学の学生さんから、お礼の手紙が何通も来た。
 “寝たきりにならないため” には、足腰を鍛えなければと考え、毎日のように2時間散歩に出掛けた。府中から新宿まで歩いたこともある。しかし先月、娘と歩いていた時に転倒し、足の骨に小さなヒビが入ってしまった。それ以来「一人では歩いてはいけない」と言われている。80 歳を過ぎてから、毎月電車に乗って新宿・四谷までシャンソンを聴きに行っていたが、しばらく行けていない。息子は「一緒に行ってやるよ」と言ってくれている。都内で整体院を営む息子は「お袋一人だと危ないから」と、週に何日か泊りに来てくれ、マッサージ、掃除、洗濯、買物、食事まで作ってくれる。娘は保育園の園長をしているため遅くに帰ってくるが、2人とも本当によくやってくれる。せめてボケないようにと、毎日ニュースを見たり、新聞を読んだりしている。“デイサービス ももたろう” には息子の勧めもあり、2月の末から通っている。今では週3日に増え、息子は「あそこに行けてよかったね」と、いつも言ってくれる。お陰さまで、大変楽しい日々を過ごしている。3月は皆勤賞も貰った。体操やお話など、一人で居たら出来ない事がたくさんあり、脳への刺激になってとても良い。
 実は私も“検体” に登録している。私が亡くなったら、葬式はいいから、主人と私の骨をハワイの海にまいて欲しいと頼んでいる。きっとあの2人なら、願いを叶えてくれると信じている。あの青い海に、もう一度行きたい。