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「3分間起立」に取り組んで2ヶ月ちょっと。段々と成果が出てきました。ある方は、若い頃から手仕事がお好きで、下を向いての生活が多く、デイでもいつも何かを作り続けていらっしゃる方です。当初は起立しても後頭部が壁に着かなかったのですが、なんと2ヶ月で割とスムーズに頭が着くようになりました。二人で感動してしまいました。

本物は 使い込むほど 手に馴染み

 生まれは長崎県の佐世保。兄弟は4 人で、2番目の長女として生まれる。母は専業主婦、父は中学校の英語教師だった。戦争中は英語の授業が出来ず、父は保険会社に勤めていた。佐世保は海軍の街で、よく海兵服姿の海兵さん達が7 ~ 8 人で歩いていて、子供たちが付いて行くとビスケットをくれた。私も欲しかったが、要領が悪かったのか貰った記憶が無い。爆撃や、海兵さんを狙った機銃掃射が度々あり、本当に怖かった。飛行機が地面に向かって飛んでくる素振りがあると、急いで海兵さん達から離れた。食事も配給だけでは足りなくなり、母が着物を持って田舎へ行き、さつまいもや小麦粉をしょって帰って来た。米はなかなか手に入らない高級品だった。終戦間際になると空襲は激しさを増し、大半の一般人は佐世保から疎開していった。私たちも母方の実家がある鹿児島に疎開して終戦を待った。
 終戦は女学校1 年のとき。戦争が終わってようやく学校でも英語を習えるようになったが、厳しい父から家で英語を学ぼうとは思わなかった。通っていた女学校と旧制中学校が統合し、その後、佐世保南高等学校になった。そのまま高校へ進学するが、女子は少なく全体の2 割しかいなかった。しかも地域で一番レベルの高い新制高校だったので、勉強は全く分からなかった。チンプンカンプンなのに、よく卒業させたと思う。高校卒業後は教員養成学校のテストに合格し、小学校の代用教員として1年間勤めた。しかし、子供たち相手に勉強を教えるのも難しいと感じていた。父は「東京に出たい」と常々言っていて、まず一人で上京し、昭島の基地で通訳の仕事を見つけてきた。代用教員の任期を待ち、家族全員で上京。昭島の都営住宅で新生活が始まった。4歳上の兄も専門学校卒業後、基地で通訳の仕事に就き、私も中河原にあるコンクリート会社に就職した。隣の席で仕事をしていたのが、後に夫となる人。同年代だがバリバリと仕事をこなし、総務部長として会社の切り盛りを全部やっていた。二人が24 歳の時に結婚。大国魂神社で式を挙げ、神社のすぐ近くに借家を借りて新婚生活が始まった。夫は元々ワンマンな性格で、亭主関白というか、あまり話もできなかった。夫は相変わらず仕事に追われ、朝7時には出勤し、夜も9時や10 時まで帰らない生活が続いた。休みも無く、子供は二人できたが、夏休みに家族で出かけたことは無かった。無理が祟ったのか、夫は37 歳のときに胃ガンが見つかり、既に末期のため手術も出来ず、数カ月後に亡くなった。我慢強かったのか、泣き言や痛みを訴える事もなかった。小学5 年生の長男、小学1年生の長女を残して。会社の社長が義兄で、色々と支援してくれた。退職金を元に二階建てのアパートと、平屋の家を建てた。子供たちも小さいので、普通の仕事をしようとは思わなかったが、アパートの家賃収入だけでも何とか生活できた。幸い中河原駅から歩いて6 分ぐらいの良い立地で、今も空き部屋が出る事は無い。
 私は昔から図工が好きで、裁縫は大嫌いだった。知り合いが皮細工のお手製バッグを持っていて、見せてもらった時に“作りたい”とひらめいた。すぐに皮細工の教室を訪ね、通うようになった。40 歳前後だっただろうか、教室に3年間通い、免許を取って生徒さんに教えるようになった。自宅で教えていたため、一度にせいぜい6 人ぐらいの生徒さん相手に週4 日教えていた。バッグやブローチの作り方を教えていたが、1日2時間の教室だと早いものでも1 週間はかかった。後に先生になった生徒さんも何人かいて、やり甲斐があり、とても楽しい時代だった。その作品の多くは知り合いにあげてしまい、今手元には数点が残るのみ。そのうちの一点、40 年前に革から作り上げ、藤の絵を描き入れたバッグを毎日のデイに持って行っている。
 70 歳位まで教えていたが、引退後は一日中特に何もせず、ぼやぼや家の中で過ごすようになった。家事も家族がやってくれる。そんな私を息子が心配して市役所に相談、紹介されたのが” ももたろう” だった。最初、人の輪に入るのは抵抗があり馴染めなかったが、みな優しくて楽しくなった。今87 歳で、早5年間通っている。アートの日、押絵の日、アウトドアの日、小物作りの日の週4回。午後は着彩をして過ごすことが多い。皆さんから「いい色ね、上手ね」と言われると嬉しい。家に帰ると愛犬が迎えてくれ、いつも近くで子供たちが見守ってくれる。だから今は心安らかに生活できているし、デイに来ている時間が一番楽しい。来られる限りは続けていきたいと思っている。思い出の詰まった、藤のバッグと共に。