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『3分間起立』『竹ふみ』に取り組みだして3ヶ月になります。今ではトイレ帰りなどで自主的に起立される方もおられ、着実に浸透してきています。そして今後は、ある本を参考に『健康で楽しく、人に好かれるため』に、 “姿勢を正しく”、“口角をあげて”、“目を見て話す” を付け加え、デイ全体で、皆さんと共に実践していく予定です。

貴族の嗜み

 生まれは、館山の別荘。その別荘は海に近く、2000 坪の敷地には松林と、いくつかの建物が点在していた。兄弟は5人。私は2番目の次男で、一番下の弟は小さい頃病気で亡くなったため、男は二人。代々続く公家(くげ)一族で、天皇や朝廷に仕えていた。一族の何人かは天皇家との縁戚関係を結んでいる。父は宮内省の文部官で、賞状や文書を発行する仕事をしていた。戦争中も皇居近くから離れず、親戚が疎開して空き家となっていた原宿の洋館に住み、戦争が終わるまで仕えた。戦争前は4代前の先祖が京都から移り住んだ際にあてがわれた、目黒の邸宅に住んでいたが、東京大空襲の1年前から館山の別荘に避難していた。その後、兄と妹、母、祖母は広島県の福山に疎開し、もう一人の妹は女子学習院初等科で塩原へ学童疎開。私も学習院初等科の学友と共に日光へ学童疎開した。皇族御二人の学友として、3年生と5年生の各数十名が『日光金谷ホテル』での疎開生活を送った。皇族方は御所で生活したため、寝食を共にした訳では無かったが、一緒に疎開していた教員による授業を共に受けた。戦況の悪化に伴い、終戦間際には奥日光の旅館へ疎開し、そこで終戦を迎えた。
 戦後は荻窪に土地を買い、家族と生活した。叔父は名古屋造船の社長で、子供がいなかった。跡継ぎ候補として、姪や甥を夏休みや冬休みに招いて、生活全般を見られた。叔父と叔母は大変厳しい人だったので、いとこ達は養子になる事を嫌がり、最後に私が呼ばれた。普段から兄とは意見が合わず、兄弟喧嘩が絶えなかった事もあり、母からも勧められ中等科2年生の時に叔父の養子になった。養子の話を快諾したのも気に入られたようだ。叔父改め義父は、東京にも立派な邸宅があったので、学校はそのまま学習院に通った。義父は、月のうち1週間だけ東京に滞在していたが、お手伝いさんが何人もいたので生活に不自由はなかった。その後、義母を癌で亡くし、何年かして新しい義母が来た。礼儀や言葉遣いに厳しく、食べ物の好き嫌いも許してはくれなかった。よく行き届いた方で、私の我儘心を無くしてくれ、今でも良い思い出が有る。義父は東大理学部を優秀な成績で卒業したそうで、遊んでばかりいた私の成績では、とても意に沿わなかったようだ。義父から実母に「家へ帰す」と言われ、実母は「犬や猫では有るまいし、今更返してもらっても困る。靴磨きでもさせてくれ」と怒ったそうだ。しかしその頃、兄がブラジルの赴任先で日本人の奥さんと結婚し、家を建てた。母も跡取りが居なくなる事を心配するようになり、しばらくして旧姓に戻った。知人の電気工事会社に就職し、通常の仕事の他に、社長専属の運転手をするようになった。その頃流行っていた“サラリーマンは気楽な家業” という歌の通りだった。仕事仲間と旅行へ行ったり、山岳部へ入ったりと気楽に過ごした。
 28歳の時、父の知人である医者の娘と結婚した。女の子を一人授かるが、気性が合わずに7年で離婚し、西荻窪で独身生活がまた始まった。スキーや登山、スケッチ旅行など、気ままな生活。食事は近くの『餃子の王将』へ毎日食べに行った。50歳の頃、父の貸家がある府中に移り住んだ。この頃に、同じ会社で秘書をしていた3歳年上の小柄な女性と親しくなった。ご主人を癌で亡くしていて、本気で再婚を考えるようになり、相手方の子供たちや弁護士とも相談した。結果的に籍は入れず一緒に生活する事となり、早30年が過ぎた。こんなに気の合う人は他に居ないほど良い人。現在、“ももたろう” には週2日通っている。民謡と習字、両方大好きで楽しい。他のデイにも通ってみたが、“ももたろう” が私には合っている。趣味は、油絵・ハーモニカ・民謡・習字。他にもフランスやドイツの詩をその国の言葉で言える。これらの趣味は、学習院大学時代に培ったもので、今ではかけがえのない財産。そして足腰が丈夫なため、歩いて絵画のサークルにも行ける、大変充実した生活を送っている。ちなみに母は99歳まで生きた。私も今の生活が、100歳まで元気に続けられたらと願っている。
 私も今では86歳。上皇となられた“学友” と同い年だ。皇太子の頃はまだしも、天皇になられてからは被災地へのお見舞いなどで忙しくされていたが、数年毎のクラス会には、体調が良いと参加されていた。お互いがまだ若い頃は山登りなどの活動にもご一緒したが、一番の思い出は御所で呑んで、御所の池で船遊びをした事。
 今振り返ってみると、色々な経験が人生の励みとなっている。