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2年前まで市立南保育園は、現在は私立光明保育園となり、交流が多くなりました。園から「運動会」「敬老の日」「餅つき大会」に招待され、ももたろうへは「フラダンス」「ブラックシアター」「マジックショー」を観に、3歳の可愛い園児が来て笑顔をふりまいてくれました。ちなみに私の息子たち3人も南保育園でお世話になりました。

金は天下の回り物

 代田橋駅直ぐの杉並区和泉で、姉2 人・兄2 人を持つ末っ子として育つ。甲州街道・環状七号線沿いに大きな土地があり、敷地の一部で父がガソリンスタンドとビリヤード場を経営していた。ビリヤード場は近くの明大学生や俳優・画家が主なお客様。ガソリンスタンドのお客様は、名のある老舗経営者の運転手付き高級車が多かった。敷地には他にも笹畑や、3つの防空壕、貸しガレージにはいつも高級車が並んでいた。父がグルメな事もあり、伊勢丹で買物し、食事はいつも豪勢だった。母も料理が上手だったが、父もよくローストビーフや焼き豚を作り、私も作り方を見て覚えた。お手伝いさんは家族1 人に1 人ぐらい居り、何不自由のない豊かな暮らし。幼少期の母との思い出は、一緒に電車や船に乗り、両国の銀行へ売上金を預けに行った事。子供連れだと大金を持っているとは思われないと考えたようだ。
 小学校は公立の学校へ、革靴に革ランドセルをしょって通った。戦争が始まり、小学3年生から軽井沢の温泉宿に1年半学童疎開した。疎開先での勉強は、地元小学校と宿とを一日おきに移動して学んだ。日の丸弁当やコーリャン粥だけといったひもじい食生活で、“煮干しの出し殻” と呼ばれるほどやせ細っていた。家族全員が和泉から離れ、バラバラに終戦を迎えた。実家家屋は大空襲で焼けていたが、ガソリンスタンドは焼けずに済んだ。中学生で予科練に行った兄も出撃寸前で終戦を迎え、3畳ほどの小部屋に身を寄せ合ってガソリンスタンドを再開した。しばらくして父が病気で亡くなり、家業を畳むと、母は市役所へ勤めるようになった。
 女学校時代、勉強はよく出来たが、体育は好きではなかった。新任の女性教師に「運動好まず、技能劣る」と通知表に書かれ、この時“女性の敵は女性” だと思った。女学校卒業後は大学の進学も考えたが、簿記学校へ1年間通い、調布の会社に経理で就職。この会社は、静岡県島田市にあった海軍技術研究所の元研究者たちが中心になって興した、マイクロ波技術関連の会社。その会社で東北大学出身の研究者と知り合った。一緒に机を並べて仕事した事は無いが、書類のやり取りを頻繁にしていた。背こそ低いが美男子かつ純朴で、人を褒める事はしても、人の悪口を一切言わない、人に好かれる人だった。二人とも父親を早くに亡くし、母親に育てられた等の共通点もあり、じきに結婚。結婚後の主人は海外出張が多くなり、傍から「アメリカ未亡人」と呼ばれるほど、外国を飛び回っていた。そのため、色々な習い事をしたのは結婚してから。主人は出張で4 ~ 5 ヶ月も帰らないことはよくあった。どこでも動じずに生活できる人で、中国で“熊の手” を振舞われた際は、爪だけペッペと出して、大変おいしく食べたそうだ。同行者は気絶してしまったそうだが。結婚して何年か過ぎた頃、高校・大学時代に借りた奨学金を主人が全く返していないことが分かり、利子を含めて私が算段をつけて返済した。だから「私が卒業させたようなもの」。2人の子供も、殆ど私一人で育てたようなもの。子育ての間に土日だけ競馬場で仕事をし、平日の日中は自宅で編み物などを無料で教えていた。
 主人は2年前に86 歳で亡くなるまで、“病気のデパート” と言われるほど、脳梗塞やら心臓病やら次から次へと病気に罹り、「杏林病院様様」と言うほどお世話になった。外国生活が多かったので、油のものが多かったのではと感じる。そして2018 年に70 歳位の男性が「防犯協会の者です。お年寄りが騙されるので、話を聞いてください」と門を叩き、人を疑う事のない主人が上げてしまった。私は洗濯物を干していて男性が帰ってから、「通帳は?」と主人に訊くと「今、全部持って帰った」と。慌てて郵便局へ行って相談すると、かえって「ばかやろう」呼ばわりされた。引き出し制限のため被害は合計200 万円ほどで済んだが、事情を知った兄嫁から「お金が無いと困るだろう」と、500 万円が直ぐに振り込まれた。既に兄は亡くなっていたが、その気持ちが本当に嬉しかった。警察から犯人逮捕の連絡を受け、顔を見たが、どう見ても20歳位の別人。きっと出し子が逮捕されただけだろう。ショックからか、主人はその年に亡くなった。私もいろいろなことがあって、頭が変になってしまった。
 あんなに外国を飛び回っていた主人とは、結局一度も外国旅行をしていない。しかし、国内旅行は北海道から九州まで一緒に行った。現在83 歳。主人を亡くしてから一人暮らしだったが、リフォームが済むと大学生の孫が一緒に住んでくれることになっている。今振り返ってみると、名前のごとく恵まれた人生だと感じる。お金に困る事も無かったが、お金には縁のない人生だった。お金は、家族葬をささやかに行えるだけ残れば、それでいい。