▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


最近、デイには2人の新人スタッフが入りました。1人は、アコーディオンを得意とし、主に水・金曜日に皆さまと歌っています。『寅さん』で始まり『ふるさと』で締めくくり楽しみにされている方も多いです。もう1人は三十代の男性!長身かつ爽やかな雰囲気で、新しい風が入ります。毎日『輪投げ大会』を盛上げながら開催してくれています。

第3 の人生は、誰も知らない地で

 生まれも育ちも京都だが、京都はあまり好きではない。私の祖父である母の父親は、キリスト教思想家である内村鑑三の弟。親族関係のもつれで、母がお腹の中に居る時から祖父は単身でアメリカへ渡り、母が祖父と初めて逢ったのは12 歳の時だという。それまで姉を含めた親子三人での生活だったそうで、我慢強い母だ。母は大学教授の父と結婚したが、父は戦時中の治安維持法で2~3年収監され、教授職も罷免された。後に教授職へ返り咲くが、新聞社に転職したり落ち着かなかったため、一人娘である私が産まれたのは、結婚して14 年目、母が38 歳の時だ。私は子供の頃からおっとりした性格だったが、京都から離れたい気持ちで、神戸にあるミッション系の短大へ進学。その後、父のゼミ生だった2 歳年上の人と28 歳の時に結婚し、神戸で新生活を始めた。34 歳の時、主人が「元気なうちから一緒に住もう」と提案してくれ、京都の実家で私の両親と4 人暮らしになった。サラリーマンだった主人は、経営の企画やコンサルティングを提供する会社を起業し、業績を伸ばしていった。27 年前、父が90 歳で亡くなると、京都が好きではない母の強い希望で、兵庫県・西宮に3 人で転居した。そして、主人を6 年前に70 歳で亡くすと、いよいよ母と2 人暮らしになった。
 母は83 歳の時に右大腿骨を骨折し手術、2 ヶ月の入院生活を余儀なくされた。執刀医から「人工骨は30年しか持たないですよ」と言われ、「十分ですよ」と笑った。ボケもせず元気に退院すると、掃除・洗濯とよく家事をしていた。娘である私に迷惑を掛けたくないという気持ちが強いようで、私も“取り上げるより、できる事はしてもらおう” と考え、何でもしてもらっていた。90 歳を過ぎた頃から、寝る時だけベッドの傍にポータブルトイレを置き、朝になると自分で片付けていた。ある朝、持ち上げた拍子に転び、今度は左大腿骨を骨折。執刀医からは「102 歳の人を手術するのは初めて」と言われたが、手術は短時間で終了。3 ヶ月のリハビリを含めた入院生活になったが「伝い歩きが出来るようになったら退院させて欲しい」とお願いし自宅に戻した。家でもリハビリを続け、杖をついて歩けるまでに回復した。102 歳にして初めて介護認定を受け、訪問介護で入浴介助をお願いしたが、それでもトイレは一人で行っていた。晩年は1 年ちょっとの間、奈良の介護施設にお世話になった。主人の会社がリーマンショックの影響で倒産した時にも、広報の仕事を依頼してくれた、30 年来の友人が新しく設立した施設。母にとっては初の入居生活となり、私は施設の職員として調理や掃除などをしに週5日通った。前回の転居では混濁がみられた母だが、ここでは最初から落ち着いて生活できた。ただ、何でも食べられていた母が段々と痩せていった。食事を残せない性格でもある母に、少々口に合わない物でも食べ切れるよう少な目にしてもらったのだが、うまく調整できなかった。母は107 歳で老衰により静かに亡くなった。体調悪化を受け1 週間泊り込んでいたが、シャワーを浴びに帰った数時間のうちに。60 年間一緒に生活し、最後は「子孝行なお母さん」と周囲から言われた母――。とうとう一人になった後も“石の上にも3 年”と考え、その施設での仕事を続けた。ただ、思うこともあり4 年目で上京を理由に退職した。
 引っ越す先はどこでもよかった。義理の姉二人は神奈川と八王子に住んでいて、その姉がたまたま国立に1件だけ空いているUR 物件を見つけてくれ、奈良から1 日の休みを取って見に来た。ほどなくして、住んだことのない東京での生活が始まった。不安は特に無かった。小学生の時から「明日は明日の風が吹く」と考えでいたし、「過去は振り返らない」。短大の友人に転居を知らせる手紙を出すと、同じ短大の同窓生が府中のデイサービスでレクの仕事をしているという。その方から“ももたろう” を紹介され即日採用。その日が締め切りの助成金事業を活用し、73 歳にして『初任者研修』の講座を受けさせてもらった。転居してから2 か月あまりの事で、あれからもうすぐ1 年になる。介護は初めて就く仕事だが、母を105 歳まで入浴介助していたので、それほど大変とは思わなかった。しばらくすると、通所と訪問双方で入浴介助の仕事を任されるようになった。小さい頃から老人に囲まれて生活していたので、“高齢者だって元気”という認識でいる。私も74 歳になるが、幸いどこも悪く無い。毎日の食事に気を配り、縫い物や手芸もして充実した生活をしている。今では週5日仕事をしているが、皆いい人ばかりで楽しい。
 波乱万丈の人生だったが、仮に何も困らない人生だったなら、人間として深みが無かったかもしれない。「なるようになる」と流れに任せているが、何一つ後悔は無い。むしろ、いつも誰かが護ってくれているという安心感がある。この先も、一日でも長く仕事が続けられたらと、願っている。