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毎年『中学生職場体験』では最大3校の中学生を迎えていますが、今年はコロナの影響で職場体験授業が無くなりました。又、今年からは5日間の日程で、8大学の教育学部生が介護体験する予定でしたが、同じくコロナの影響で中止となりました。残念ですが来年こそは多くの若者と、意義のある交流が出来ればと願っています。

ハワイとサーフィンと私

 生まれは品川区荏原。3歳年上の兄を持つ長女として生まれた。父は中央公論社の編集者だったが、50 歳前後で脱サラし、カレーのお店を出すが失敗。その後もアジアブームに乗ろうと、マンダラを海外のホテルに売り込むため海外出張へよく行っていた。母の実家は新宿駅西口の近くで靴店を経営し、いわゆる“お嬢さん” として良い生活をしていた。また、父方の祖父はインド大使館に勤め、毎週のように父と兄の3 人、自転車で1時間かけて元麻布の職員宿舎へ遊びに行った。インド人の大使館職員とガレージでホッケーをしたり、南麻布の有栖川宮記念公園に行ったりした楽しい思い出がある。母は専業主婦だが、次々に事業を始めては失敗する父には何も言わず、時々実家からお金の融通をしてもらっていたようだ。私の高校時代は、“めっちゃ楽しく” 遊び惚けていた。高校生なのに週末は居酒屋で呑み、ディスコで夜どうし踊って殆ど家には帰らなかった。高校にも行きつつ、モスバーガーや居酒屋でバイトをしてお金を作った。当時の父と母も色々大変だったと思うが、家での私はお風呂に入って寝るだけという生活をしていたので、母の悩みや気持ちがわからずじまいだ。私が高校3年生の時、両親は離婚した。自由奔放でいつも適当だった父だが、急に子犬の秋田犬を連れて帰り、夜泣きする子犬と朝まで玄関で添い寝したり、夏休みには海に連れて行ってくれたりと、憎めない父親だった。
 サーフィンとの出会いは、小学4年生の頃。友達のお姉さんがサーファーで、大変格好が良かった。高校生になると始発の小田急に乗り、サーフィンをするために湘南の鵠沼海岸に通った。進学は推薦で工業大学に入ろうと思っていたが、推薦枠は2名分。短大には行きたくなかったので、推薦が厳しいとわかると早々に進学を諦め、卒業後は下田の『ホテル マリーンビレッジ』で社員として働き始めた。ホテルで働きながら、仕事の前後はサーフィン三昧。宿・食事付きだったのでお金は貯まった。短大に進んだ友人の誘いで、サーフィンをしにハワイへ旅行した。初めは4泊6日のツアーから始まったが、ハマってしまいどんどん日数を伸ばしていった。社員からバイトに格下げしてもらい、ノービザの期限である3カ月滞在を3回繰り返した頃、あまりにも頻繁にハワイへ来る事を入国審査で怪しまれ、入国できなくなる恐怖を覚えた。ならば、学生ビザを取ればしばらく長期滞在できると考え、ハワイの語学学校に入学し2 ~ 3 年通った。貯金が300 万円ほどあったので何とか生活できた。その後、友人との飲み会で知り合った身長が181cmある、同じ年のアメリカ人と25 歳で結婚。大変優しく穏やかな人。結婚した事でハワイでの就労ができるようになり、日本のツアー会社に就職。ワイキキのホテルや免税店でオプショナルツアーを受け付ける仕事。朝4時に家を出て、昼過ぎまで仕事を26 歳から37 歳まで務めた。その旅行会社のスタッフは変わり者が多かったが、その中の3人とは今でも親友だ。ハワイで長女を出産。ここでは子供を13歳まで一人にしてはいけないため、学校の行き帰りも親が車で送迎するのが当たり前だった。夫と手分けをして子育てし、夫は午後からのサンセットクルージングを仕事にした。そして上の子がある程度大きくなると、公立小学校の教師になった。下の子の出産を間近に控えていた頃、母は病気のため65 歳の若さで亡くなった。母の遺産で日本でも生活できる住居を探したところ、府中に手ごろな家があり一括で購入。そして長女が小学校1 年生の時、ハワイの学校が休みの1ヵ月半、矢崎小学校に臨時に通わせてもらった。日本語が全く話せないのに、日本の学校が気に入り、日本で暮らしたいと言うようになった。給食が良かったのか、広い校庭が気に入ったのか、はたまた自由を感じたのか理由はわからない。一旦ハワイに戻り、翌年日本に引っ越してきた。長女は小学2年生の新学期より正式に入学し、次女も矢崎幼稚園へ通い始めた。夫はしばらく日本とハワイを行ったり来たりし、その後日本のインターナショナルスクールへ勤めるようになった。給料は良かったが、満員電車や日本の狭い家が嫌になったのか、ハワイに帰ってしまった。私も夫の時間がルーズな所が嫌だったので、42 歳の時に離婚。ハワイでは公立小学校の教師に戻り、今も養育費を送ってくれている。
 あんなに憧れたハワイだが、結婚してからサーフィンはしていない。というより時間が無く出来なかった。ハワイは観光には良いところだが、お金持ちしか住めない島。離島だから殆どを輸入に頼っていて、食べ物は冷凍食品が多く、物価も高い。高校1年生と中学1年生になった娘に「ハワイに帰りたい?」と聞いても、「日本が良い、ハワイに帰りたくない」と言う。1度だけ義父の調子が悪くハワイに行ったが、その後は行っていない。離婚後、卸売センターでパートを始めた。ご高齢の買い物客も多く、お話しをしているだけでも心地よく、手助けをして喜んでもらえるのが嬉しかった。家の近くに“デイサービス ももたろう” がある事を知り、面接を受け無資格の私を採用して貰ったのが福祉の世界に入った切掛け。子供たちが学校から帰ってくる頃には家に居たいため、時短勤務ではあるが、徐々に仕事を増やし9月から週3日働く事になった。将来的には、ケアマネジャーになって総合的にご高齢の方々を見守っていきたいと考えている。
 悔いのないほど楽しい人生だが、苦労もした。人生はどう転ぶかわからない。それがまた、好い。