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『コロナより怖い認知症』というタイトルの記事がありました。「外へ出ないように」とご家族から言われると、どうしてもベッドばかりで過ごすようになり、会話も無く笑うことも忘れる生活に。すると身体機能が低下し認知症なるという内容。ももたろうでは、笑い 歌い 話し 歩き 作り 書く活動を取り入れており、皆さま大変お元気です。

王道楽土 満州と共に歩んだ15 年

 生まれは北海道。厳しい両親のもと、上に兄を持つ長女として生まれた。公務員の父は、日本からの転勤で満州・ハルピンへ赴任する事になり、両親と兄と私の4人で満州へ渡った。私が3歳の頃で、満州国が建国された頃の事だと思う。満州で弟と妹が5人生まれ、兄弟は7人になった。満州の街は綺麗でデパートもあり、まるで有楽町と銀座がそのまま引っ越してきたような街。雪が降ってもすぐに除雪され、レンガ造りの家はペチカというロシア式のストーブが設置され、冬でも温かかった。兄弟も多いが、三部屋ある自宅で何不自由ない暮らし。美味しいものを食べ、デパートへ買物にも行く。教育も充実しており、セーラー服を着て文部省管轄の学校へ通った。父は「沢山の物は買ってやれないが、学校だけは出してやる」といつも口癖のように言っ
ていた。兄や弟は旧制中学校を卒業し、わたし達女の子は、全員女学校を卒業させてくれた。今でも有り難かったと感謝している。戦争が始まるが、満州での生活は変わらず落ち着いていた。内地からの転校生より「日本ではろくに食べ物もないし、こんな立派な家には住めない。普通は板でできた家に住んでいる」と聞かされ、驚いた。
 女学校卒業後は“満鉄” に入社し、事務の仕事に就いた。同僚は全員日本人、全部日本語だった。そして戦争末期になると、“疎開” という名目で父と長男・次男を残して、日本に一度帰る事になった。あくまで一時的な疎開と考えていたため、妊娠中の母と共に動きやすい恰好で、ほとんど全ての物をそのまま置いてきた。実際のところは“引き揚げ” なのだが、緘口令が敷かれていたようで、父を含む誰からもその言葉を聞かなかった。もう、あの家には戻れないと悟るまでに時間は掛からなかった。事情を知っている人は、身の回りの物全て持ってきていた。綺麗な客船で釜山を経由し日本に渡ってから、寝台列車に乗り何とか北海道までたどり着いた。初めて見る日本の生活。納屋だと思った建物には、驚いたことに叔母が住んでいた。木の板でできたその家には、だるまストーブが一つ。冬の北海道は、寒かった。
 裁縫が得意な母は、満州でたくさん服を作ってくれたが、殆ど全部置いてきた。母は、「貴方たちに色々作ってあげたのに何も持ち帰れなかった」と、力なく何度も言いっていた。「お父さんは、どうしているかしら?」「タカシは、どうしているかしら?」と、一日に何度も何度も尋ねられた。子供達はすぐに「しかたない」と、北海道の暮らしにも慣れていったが、満州での暮らしとは似ても似つかず、母はなかなか慣れる、というよりも受け入れる事が出来なかったようだ。家事も私が中心になってこなした。
 戦後、父と兄弟が帰ってきた。それからは母も元気を取り戻したが、父に「メソメソしていて、“お守り”が大変だった」と漏らすと、つねられてしまった。以来、家族全員が「あの頃の事を思えば、何でもできる」を合言葉のようにしていた。父と兄はそのまま公務員として勤め、公務員宿舎に入った。私は、最初農協に勤めたが、「頭がいいから」と代用教員をお願いされ、小学校に3年勤めた。子供達が可愛く、仕事はとても楽しかった。職員のほとんどが男性で、結婚もしばらくして職場で知り合った人と。6歳年上の真面目な人。プロポーズされるも「しません」と断ったところ、「待つから」といい、頻繁にお土産を持って家に尋ねてくるようになった。そして1年ほどして結婚。子供は、男の子1人、女の子1人の2人。教師の仕事を辞めてからはずっと専業主婦をした。
 「満州でいい思いをしただけに、今はぺっちゃんこ」と、母はいつも言っていたが、日本でも恵まれた環境で生活でき、特に困ったことはない。定年後も夫から「お金は残さなくていい、心に残そう」と言われ、夫婦であちこち海外旅行に出かけた。ヨーロッパや満州へも行って楽しい思い出をたくさん作った。そんな夫も私が88 歳の時に亡くなり、それを期に府中の娘と同居するようになって4年が経つ。最初は他のデイへ通っていたが、今は週に3回“デイサービスももたろう”へ通っている。ここは皆が良い人で、良いところ。好きな歌を歌って楽しく一日を過ごしている。コロナでデイに行けなかった時期は立ち上がるのさえも難しくなったが、今では1人で歩けるようになった。
 良い事がいっぱい、いっぱいあった人生。ずっと、ずっと幸せです。