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若くて元気一杯の女性スタッフが加わりました。そのスタッフが行う帰りの会では、必ず風船やボール、お手玉を使ったレクをしています。皆様、歓声と笑い声が絶えません。笑うことすら自粛ムードの今だからこそ、大切な事かなと感じています。コロナが落ち着いてきたからか、見学や新し仲間が増えています。共に笑いましょう!

生きてるだけで、丸儲け( 前編 )

 生まれは、養蚕で知られる群馬県桐生市。実家も養蚕農家で、桑畑が広がる田舎の家に生まれた。私は3人きょうだいの長女で、下には年の離れた長男と次女。当時父はサラリーマンをしていたが、中卒から寿司屋に住み込み、板前の仕事を長くしていた。そして私が8歳の時、母に背中を押され脱サラし、寿司屋を開業した。桐生市の街中にあった寿司屋を居抜きで譲り受け、自分たちで改装したお店だ。11 時に開店し、お客さんが居れば朝まででも店を開け、お客さんを喜ばせようと、ネタは厚く切った。店は大繁盛し、両親は寝る時間も無いほど働いていた。父は朝4時の出前でも、片道1時間以上かかるたった1人前の出前でも断らなかった。
例年、お正月の3が日は72 時間ぶっ通しで店を開けた。従業員を雇うこともなく、お金はどんどん入ってきた。しかし、父は大のギャンブル好きで、ボートレース、パチンコ、麻雀と、時間があればお金をつぎ込み、母はとても苦労していた。穏やかな性格な父だが、母に叱責されると、またギャンブルへ繰り出す悪循環に陥っていた。母は、お金を貯めて家を建てようと、外にあるゴミ箱の下に現金を隠していたが、その300 万円も見つかってしまい、とうとうスッカラカンになった。そして、私が13 歳の時に離婚。母ときょうだい3人での生活が始まった。母は飲食関連のパートで昼夜家を空けるため、中学生の私が主婦の代わりをした。8歳違いの妹を保育園へ自転車で送迎していたが、母のお迎えが良いと言って爪でぎゅっと手を握られ、手にはいくつもの傷ができた。嫌なことがあってもじっと我慢して過ごす日々。同級生からも寡黙で我慢強い性格と知られ、浮いた存在だった。
 高校時代も病気がちだった母親の代わりをし、妹の送迎から授業参観、弟が悪さをした時の呼び出しまで行った。童顔のため舐められないよう、「しっかりしなきゃ」と自身に言い聞かせて。
進学した家政科の学校は、洋服づくりの生地代も払わなければならず、勉強とアルバイト漬けの毎日。テレビを観るのは週に1時間だけだった。学生時代に唯一甘えた記憶は、歳の近かった先生の家へ遊びに行き、ごろ寝しながら「お菓子まだー?」とねだったこと。高校卒業後は、東京・青山の音楽学校へ入学した。とにかく家を出たかったし、歌が好きだったから。しかし、その年の6月に母が脳出血で倒れた。やむなく学校は辞め、桐生市の自宅に舞い戻った。母の入院生活40 日間の間に、妹も盲腸の手術を受けたため、片道30 分の病院へ自転車で毎日見舞いに行った。働く時間も無いため、食事は塩ご飯。病院では、下の階で赤ちゃんが産まれ、上の階で高齢者が看取られていく――。人の一生に直接的に関われる医療や看護の仕事に興味が沸いた。かといって素晴らしい病院だった訳ではない。死にそうな母を前に泣いていても、対応はとても事務的で冷たいものだった。3人の若い看護師だけが温かく声を掛けてくれ、その人たちに救われた。この時から漠然と“いつかは看護の仕事がしたい”と考えるようになっていた。
 きょうだいを養い、生きていくためには働かなければならず、毎日16 時間パン屋や居酒屋を掛け持ちで働いた。20 歳になった頃、やっぱり歌の仕事がしたいと思うようになり、上京しプロダクションを数十件訪ねた。最後に訪ねた新宿御苑のプロダクションに採用され、クラブやテレビの収録などで歌うようになった。演歌からポップスまで歌い、収入は月に40 万円ぐらいあった。しかし歌や踊りのレッスン代は自分持ちだったため、生活は楽にならなかった。そんな暮らしが2年続いたころ、知人に紹介されて田中美奈子さんが所属するプロダクションの社長と話す機会に恵まれた。喫茶店で会った社長とは話が合い、田中美奈子さんの後輩としてデビューする話がトントン拍子に進んでいった。しかし、あまりにも話が早すぎる。“もっと苦労しよう” と思い、その話は蹴った。間を置かず「欽ちゃん劇団が二期生を募集している」との話を聞き、受けてみた。しばらくして、雪の降る日に“サクラサク” と劇団より電報が届いた。最初は意味が分からなかったが、『欽ちゃん劇団』へ入団。この時代も1日1合のお米を炊飯器で炊き、塩をかけて食べる毎日。いつも栄養失調気味で、気力だけで乗り切っていた。夢を食べて生きていく生活に幸せを感じ、“いざとなったら雑草を食べよう” と気持ちは軽かった。相模原のアパートに照明器具はなく、隣の電気が消える10 時過ぎからは、ロウソクの光で演技関連の専門本を読んだ。早朝から昼まで新宿のホテルでアルバイトをし、その後三軒茶屋の練習場に通う日々。さすがに途中からアルバイト先のホテルにて一日一食まともな食事を食べるようにしたが、お金は無い。劇団の授業料は年間1万円のみでとてもありがたかった。発声練習や台詞練習の他にジャズダンス・日本舞踊・バレー・パントマイム、そして剣玉のレッスンがあった。二期生は当初60 人位いたが、3ヶ月に一度試験があり、1年後には8人になっていた。
 同期にマクドナルドのアルバイトで生計を立て、鎌倉から通っている28 歳の女性がいた。次第に彼女を惨めに思うようになり、演劇に夢も希望も持てなくなってしまったため、次の定期試験で落としてもらうと、諦めきれなかった看護の道に進むべく看護学校へ通いはじめた。