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「快食」・「快眠」・「快便」・「笑い」の4つが毎日あると、いつまでも健康で楽しい生活が過ごせると日々感じています。デイのおいしい昼食や、適度な疲労感のある活動で皆様よく笑い、快眠との事。現在50名弱の方々が来所されていますが、4つの要素を毎日実感しながら、大変お元気に過ごされています。髪の毛が黒々と変化される方も多く、驚かれます。

寄せては返す波のように

 生まれは、愛媛県。父は大きな山を3つ持ち、梨・ぶどう・みかん・スイカなどを作る果樹園を営んでいた。兄弟は兄2人、姉1人の4人兄弟で、私が末娘。末娘だからか他の兄弟と比べ肌が白いからか、母は私を大変可愛がり、どこに行くにも私だけ連れて行ってくれ、時に学校を休んでまで一緒に出かけていた。私は掃除も家事も一切しなかったが、兄は果樹園の手伝いをし、3歳年上の姉はいつも家の掃除をしていた。畳は水で濡らした新聞紙を撒いてホウキで履き、桐のタンスはカラ拭きしていた。母は芸者さんだったようで、三味線が大層上手だった。私にも子供用の三味線を買い与え、小さい時から習いにも行かせられた。一方で母は読み書きができず、小学生低学年の頃から、私が “ひらがな” で手紙などを代筆していた。そんな小学3年生の時、母が実家の高知に帰って留守にしている夜、食事時に「お母さんは、僕たちを産んでくれたお母さんではないよ」と、兄が教えてくれた。実の母は私が2歳の頃に結核で亡くなったそう。だから実の母の顔も声も覚えていない。

 中学校は地元の学校へ通い、高校は今治市にある高等学校へ片道 40 分かけて通った。高等学校へ行ったのは、兄弟のうち私だけ。高校へ行きたいと言うと「女が勉強することはない」と、母は反対したが、二人の兄が「お金は俺たちが出すから、行かせてやって欲しい」と、頼み込んで進学させてくれた。その学校は男女共学校であったが、男子生徒とは一言も話したことがない。禁止されている訳ではないが、女子生徒は誰も話していなかった。先生も殆どが男性で、女性の先生は料理の先生ぐらい。私は男の先生に好かれていたのか、傍を通るたびに、私の肩や服をさーっと触って通り過ぎていた。町を歩いていると、立ち止まって見られたりしたが、自分では特に美人だとは思っていない。

 高等学校時代の土曜日は、叔母が経営する松山市のサロンへ行くのが日課だった。銀行員の経歴を持つ美人の叔母は、教員を辞めてサロンを開いた。外から見ると普通の民家だが、ここは地元のお偉いさん方が、麻雀やお酒、料理を愉しむ隠れ家的な社交場だった。当時、銀行の支店長や、大きな会社の社長、病院や学校の長のような人は、飲み屋で普通にお酒を飲んだだけで、次の日の新聞に載るような時代。その為、叔母のサロンはそういった “長” のつく人たちの隠れた社交場だった。集う人はみな紳士的で、私は麻雀をする訳でもお酌をするわけでもなく、会話といえば挨拶程度でただ見ているだけだった。高等学校卒業後、サロンで縁のあった松山三越の社長さんに紹介され、百貨店への就職は家柄を問われる狭き門の時代に、松山三越のネクタイ売り場に就職した。2年目の忘年会で、皆がお酒を飲んで談笑しているとき、ネクタイ売り場の主任が突然私の手をとってダンスを踊りだした。私はダンスの素養は無いが運動神経が良かったので、そのまま踊れてしまった。その日を境に、私を見る同僚の目が違っていた。睨んでいるような、何とも言えない目つきが耐えられなくなり、翌月に退職した。

 退職後は叔母のサロンを少し手伝い、お客さんとして来ていた院長先生に病院受付の仕事を世話してもらい、2年位勤めた。その後、結婚して福島県いわき市に転居。30 代で喫茶店を開店すると、常連の客さんがたまたま銀行の頭取で、その方のお世話になり広い土地を買った。畑だった何もない土地は次第に発展し、いい値段で売れていった。いわきにはそれまで無かったドライブインやバーを何件も開店させ、どこもとても繁盛した。車で店を見に回っては、従業員に指示を出していた。その後、海岸のそばの観光物産センター内に店を出し、“いかめし” を作って売るようになった。この “いかめし” は自分流に作り上げたレシピで、人が作った物では気に入らずに毎朝自分で仕込みをした。観光バスで乗り付ける県外の人たちも買いに来てくれたため、“いかめし” は飛ぶように売れた。市内の店舗にも卸し、
お陰で大きな家も建った。一階に調理場や作業場、従業員の休憩室などを設け、2階を住居とした家に住み、何不自由のない生活。移動はいつも車で送ってもらっていた。満たされた生活は、11 年前の3月 11 日で終わった。地震後に津波が押し寄せ、お店は全て流された。幸い家に津波の被害は無かったが、色々あっていわきを離れ、娘がいる府中に越してきた。息子や娘と会う事も連絡する事もなくなり、ケアマネジャーさんなど福祉のお世話になりながら賃貸アパートに一人で住むようになった。今は話せるが、当時は思い出したくもなく、実際に多くは忘れてしまった――。

 現在 87 歳。7年前から “デイサービス ももたろう” に通い、今は週3回通っている。何でも話せる友達もでき、自宅では“ケアももたろう”のヘルパーさんに助けられながら生活している。「もうダメかな」と思っても、いつも誰かに助けられた私の人生は、小説が書けるほど波乱万丈だ。今は、お陰様で安心して生活できている。人生を振り返ってみて、何をしても成功したし、“上の人達”からはとても好かれた。きっと下心も裏表も無く、「嫌だな」と思う人に対しても、いでもニコニコする、そんな振る舞いが気に入られたのだろう。“したい” と思った事はすぐにしていたから、この人生に悔いは無い。自分よりも相手を幸せにしたいと思っているし、自分より先に相手が幸せになってほしいとさえ思っている。今、私がいわきに戻れば息子や嫁に気を遣わせる。それなら、この借家での生活は、息子に楽をさせていると思うと「このままでいいか」と考えるようになった。“いつでも帰れる自分の家” がある。それが心の大きな余裕を生んでいる。帰る事を急ごうと思わないし、焦りはいつしか無くなった。ただ、せめて死ぬ時は、自分で建てたあの家で死にたい。それが最後の、偽らざる願いだ。