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毎日おやつ後に『帰りの会』を30~ 40 分しています。歌やクイズなどの定番のほかに、最近は『折り紙』をすることが多くなりました。折り紙と言っても、猫・犬・ペンギン等々、立体的で見栄えのするものです。皆様大切に持ち帰られ「16 個たまったわ」などと、楽しみにされています。手先と脳を使って、ますますお元気になられています。

今日は残りの人生で一番若い日

 “デイサービス ももたろう” へオカリナ演奏のボランティアに行くようになり16 年になる。コロナ禍の2年間は行けなかったが、数カ月前から活動を再開している。いつも4名
から5名で赴き、午前中にオカリナ演奏を披露している。先日所長さんに「卒寿になりました」と告げると「噓でしょ!?」と何度も言われた。

 生まれは、当時日本国だった台湾の台北市で、父は台湾総督府外事課の公務員。私は6人兄弟の2番目に生まれたが幼少期から虚弱体質でよく風邪をひき、熱を出していた。台
北の大学病院に入院した時に病室のベッドから転落し、大泣きしたことを今でも思い出す。終戦を迎えた翌年、父はフランス語の通訳としてベトナムに赴任していた。台北に残った家族は戦後も不自由なく暮らしていたが、政府から引き揚げを命じられた。子供も大人も1人につき夏物冬物3着ずつの衣類に、靴は履いている靴のみ。お金は千円までしか持って帰れず、それ以外の家財道具など、文字通り全財産をお手伝いさん達に譲って引き揚げた。港から日本軍の船舶に乗り込み、翌日の昼に田辺湾に上陸。母の実家がある呉に辿り着くと、そこは台北とは天と地ほどの差があった。戦後復興はまだまだで、食べるものは全く手に入らない。お弁当はいつも麦飯だった。私は革靴だったが、友達は冬でも下駄しかなかった。姉や妹たちと遠い海を眺め「台北に帰りたい」と泣いた。県立呉第1高等女学校の2年に編入し、卒業後に一家で東京へ引っ越した。父はベトナムで一番偉い方について通訳をしていたため、公職追放の対象となり職を失った。主にベトナム関連の本を書く文筆家になったが、生活は苦しく親戚の人たちにずいぶん助けてもらった。

 私は「手に職を」と、新宿の文化服装学院に進学し、本科研究科を卒業した。就職を考えていたら、大阪の大丸が東京に出店することを知り、就職試験を受けた。無事合格するが、父から「体が弱いし、空気も悪い。病気をうつされたら困る」と言って就職を認めてくれず、縁故である医科大学解剖学教授の秘書になった。小さい時からよく医者にかかり、親類にお医者さんも多いことから「大きくなったらお医者さんになる」と周囲に言っていたのを思い出した。人体の不思議は知るほど面白く、ホルマリン液に浸けられた腕や足、成長過程が見える胎児の数々も特に怖いとは思わず、むしろ興味深かった。このまま結婚せずに仕事を続けようかと考えていた矢先、私が婚期を逸するのを心配した父の勧めで6歳年上の男性と結婚し、3人の子宝に恵まれた。夫は毎日弁当を持って都庁へ勤め、定年退職後は写真や絵の趣味に没頭していた。絵を描く時はみなを早く寝かせ、写真も自ら現像していた。65 歳から自動車教習所に通いだし、87 歳まで運転していた夫は92 歳で亡くなった。亡くなってみて「60 年間の結婚生活とは何だったのか?」と、涙は全く出なかった。

 私の趣味はテニスで、40 歳から30 年間続け何度も優勝トロフィーを貰ったが、家には飾らせてもらえなかった。70 歳の時に娘から「テニスはそのうち出来なくなるから、そ
ろそろ頭を使う趣味を持ったら」と言われ探していた。タイミングよくオカリナ奏者『宗次郎』の演奏を府中で聞き、その音色に魅了された。その後しばらく追っかけもしていたが、よきオカリナの先生に巡り合うと、今度はオカリナを猛練習した。70 歳からの手習いではなかなか思い通りにならないが、少しでも良い音色を出そうと努力を続けた結果、アメリカのコロラドや北海道などへ演奏しに行く機会に恵まれた。だが主人は「ない袖は振れない」と一言言ったきりで、演奏会の旅費を出してくれる事はなかった。テニスを教える事で少しずつ貯めたお金を旅費に充て、演奏会に参加したものだ。

 75 歳の時に2か所の肺がんを手術した。今年の2月には自宅で心筋梗塞のため倒れた。一人暮らしのため、無意識のうちに息子へ電話を掛けて助けを呼び、1週間後に無事退院できた。思えば何度か急に倒れ、気付くと顔や手に傷がついていた事もあるが、幸い骨折は無い。足腰が弱くなっていることを自覚してからは積極的に運動するようになり、現在は息子の家へ毎朝新聞を届けがてら散歩している。日々の買い物は宅配サービスを使い、近所には美味しいパン屋さんや八百屋さん、クリニックも充実しているため、一人での生活でも不自由はない。耳も目もよく、骨は実年齢より17 歳若いと言われている。背中も曲がっていないため80 歳ぐらいに見られるが、90 歳になった。こうしてテニスやオカリナの仲間、子供たちに囲まれて毎日幸せな日々を送っている。でも、そろそろまた何か新しい事をやりたいと思っているのだが、その「何か」はまだ見つかっていない。