「挨拶ができる人、ありがとうを言える人、いつも笑顔の人」に幸せは訪れるのよと、86 歳の女性利用者様がご自身の人生を基にお話しして下さいました。丁度手伝いに来ていた高校1年生の私の孫は、感激して涙し、家に帰ってもその話を家族に伝えたそうです。ボランティアの方も「色々と教えてもらえる事が多く学びになるので、行くのが楽しみ」と言って下さっています。
ケセラセラ 【前編】
神奈川県横須賀生まれ、海に近い実家で育った。5歳年上の姉が一人の、二人姉妹。父はサラリーマンで、母は 専業主婦。母は神経質な性格で、置いてある物が真っすぐでないだけでも気になるような人だ。私は母に全く似ず、 「適当過ぎる」性格だった。母から「あんたみたいなのを味噌もクソも一緒って言うんだ、ちゃんとしろ!」とよ く叱られたものだ。いまだにどのような意図かわからないが、15 歳の時に竹刀をいつも持っている強面の担任が 家庭訪問に来た。その際、「娘さんは “日本の母” のよう」と形容され、きょとんとした母の顔が今でも忘れられない。 海の近くに住んでいても、海にまつわる趣味は全くなく、ほとんど海で泳ぐこともしなかった。“陽キャ” がウヨ ウヨいる海は好きではなく、近づきたくもない。小学校時代の私は“大人しい子”。そんな私が中学生から剣道を始め、 高校卒業までずっと続けた。剣道部に入った理由はいくつか見学に行った部活のうち、一番勧誘が激しかったから。 断りきれずに入部してしまったクチだ。剣道部では大層しごかれた。立てなくなるまでやる “打ち込み” や、夏は 体育館の窓を閉めて蒸し風呂のような中での稽古、寒い冬は窓を開けての稽古。本当は辞めたかったけれど、怖く て言い出せなかった。特に高校の剣道は OB の大学生まで参加し、その中の数人がとても厳しい人だった。体力は あったため、怪我や病気で休むこともなく友人と愚痴を言いながら何とか続けられた。この時代の運動部はどこも 厳しく「こんなものか」といった感覚で、同級生や先輩の中に優しい人もいたため、部活は楽しくもあった。
母は 18 歳で大分から出てきたこともあり、私も 18 歳で横須賀を出てみたいと思うようになっていた。高校卒 業後の進路は就職も考えたものの、時は就職氷河期の真っただ中。高卒で働けそうな職といえば、水道メーターの 検針員か、ナッツ加工工場だけだった。ならば手に職をと考え、スマホもない時代に思いついたのが看護師だった。 看護師に憧れや強い思い入れがあった訳ではないが、人と関わる仕事がしたいと漠然と思っていた。横須賀から離 れたい思いがある反面、あまり遠くも嫌。結局、中途半端な距離にある三鷹の杏林大学病院にある看護学校に入学 した。そうして4月からいきなり3年間の女子寮生活が始まった。寮生活は仕切りもない部屋に2人での生活。半 年に1回、くじ引きで部屋替えがあり、合計6人の女学生と共同生活した。この経験から「人には相性がある」こ とを思い知る。初見では仲良くなれそうな子が、実際には「なんでこんなに息苦しいんだろう」と感じたこともあ るし、逆に金髪で住む世界が違うように感じた子と快適に生活できたり。人に合わせるのが得意だと思っていた自 分の性格が、そこまで合わせられないんだとも感じた。看護学校での3年間は、なんでこんなに勉強をしなければ いけないんだろうと感じるほど勉強した。試験はしょっちゅうあり、実習・試験・実習の繰り返し。試験で 60 点 以下ならば、500 円出して追試験を受けなくてはいけなかった。毎日毎日、勉強ばかり。看護師に憧れを強く持っ ている人ほど辞めていったように感じる。今でこそ男性看護師は珍しくないが、男性の看護学生が一人だけいたも のの、彼も途中で辞めていった。生活費は東京都から2万円、杏林病院から3万円の合計5万円を毎月貰い、親か らの仕送り3万円を加えた8万円で生活した。受給期間と同じだけ看護師として働けば返済義務はないため、卒業 後はそのまま杏林大学病院に就職。最初の1年間は先輩が教育係として付き、色々と教えてもらった。看護学校で の生活がきつすぎたこともあり、仕事の方がだいぶ楽に感じた。寮生活だって一人部屋で快適になった。
看護の世界に入ってすぐに感じた事は、“自分の適当過ぎる性格では、すぐに医療事故を起こして捕まる” という恐怖だった。“ミスしないように仕事だけはちゃんとして、仕事上だけはちゃんとした人間になろう” と誓った。面倒なトリプルチェックも真面目に行った。最初の所属は心臓内科。心筋梗塞や不整脈などの患 者さんが多く、若い患者さんは 10 代から。一通り仕事を覚えバリバリ働いた。心臓内科で3年、次の配属 である血液内科で2年半働く。心臓内科は明るいが短気な患者さんが多く、血液内科はゆったりした患者さ んが多かった気がする。心臓内科は慌ただしく、急変対応も多いのが馴染めなかった。対して血液内科では 白血病の方も多く、ゆっくり・穏やかに低下していき、退院できずに亡くなる方も多かった。当時は看護助 手の制度がなかったため、入院中の入浴や排泄のお世話なども、ほとんど看護師が行っていた。
結婚相手は杏林大学病院の近くにある居酒屋で出会った人。夕食や晩酌に一人でよく行っていた居酒屋に、 よく一人で呑みに来ていた男性を、女将が引き合わせてくれたのがきっかけ。5歳年上の夫は原子力発電所の 設計を行っている技術者だった。26 歳の時に結婚、27 歳の時に長女を出産して家庭に入った。その後も4歳差 で3姉妹を出産した。当時、夫はものすごく忙しく2週間の予定でアメリカへ行くと言って、そのまま4カ月帰っ てこれないこともあった。夜 11 時に帰って来たと思えば、またパソコンを開いて仕事をするような生活。なので、 完全に役割分業となり、私は家で子供の世話や家事に専念して、夫は娘を風呂に入れた事すらない。ただし、 夫の収入は多く、生涯安泰の左うちわ、辛いのは今だけと思って頑張っていた。再び働く事もないだろうと思っ ていたし、柄にもなく子供服を伊勢丹へ買いに行っていたのが象徴的だ。2011 年 3 月 11 日、東日本大震災が 日本を襲った。あの日を境に原子力発電の潮目が変わり、夫の仕事にも多大な影響があった。それから2年後 に夫は転職を決意し、放射線医療機器の会社へ再就職した。医療機器メーカーは土・日も休めるし、体にも無 理がない仕事で、結果的に良かったと思う。ただ、給料はがくんと落ち、左うちわの夢は潰えた。
(後編へ続く)