ようやく暑さが和らいできた昨年の9 月下旬から、午後の屋外歩行を再開しました。数名ずつスタッフと手を繋いで嬉しそうに、お話をしながら歩かれ、ご近所の方からも「楽しそうね」と声を掛けられます。雨の日は室内を歩いて頂きます。単調にならないよう、音楽をかけ、楽しく歩ける工夫をしています。美味しい昼食を召し上がっているので、皆様午後もお元気です。
それでもカイゴで生きてゆく【前編】
生まれは、東京の町田市。母は体が弱く、子供は長女の私一人。父・母・私の3人家族だが、両親は共に6人兄弟の長男・長女で、我が家に両親の弟や妹を住まわせて学校へ行かせていた。近くに母の妹も住んでいたので、その長男がしょっちゅう家に来ては、私が子守りをしていてよく懐いていた。父の仕事は建設関係で、設計や監督をしていたため自宅にはあまり戻らず、企業戦士よろしく猛烈に働いていた。母はナースで、私がお腹にいたときに仕事を辞め、その後専業主婦に。現在、共に 88 歳になった今も元気に二人で生活している。
小さい頃から家でニワトリやカナリア、ピラニアを飼っており、動物は好きだった。小学校の時に家で飼っていたニワトリに追いかけられたのがきっかけで、それ以来鳥が大の苦手。小学校のころから近所の子と野球をしていて活発な方の女子だった。中学の時には保育士になる夢があったものの、ピアノができないため早々に諦めた。高校卒業後は短大に進学する。「『衣・食・住』の何かしら資格を取りなさい」と母に言われ、栄養科・農業科・醸造科のある短大に進学した。その中で「女性だから」と、無難な栄養科で栄養士の資格を取ったものの、今思えば醸造科で酒造りを習えばよかった。栄養科で学んだ男子は 180 人中の7人で、ほとんどが女子だった。在学中の2年間、厚木での田植えや、2泊3日で牛の世話をしに富士農場へも行った。自分たちはわからなかったが、帰りの電車の中は家畜の臭いをまき散らしていたらしい。栄養科は各種実験も多く、生物の解剖もあった。ネズミや鳥の解剖では、気の強い女子が大声で泣いていたそうだ。私は解剖実習の時、世田谷にあった国立小児病院で調理の実習をしていたため解剖には参加していない。小児病院では、調理師長さんについて調理の見習いのようなことをした。アレルギー対応や食形態の配慮が行き届いており、絶対にミスが許されないピリピリとした厨房の雰囲気を覚えている。
短大卒業後は缶詰会社で食品の研究がしたかったものの、就職試験に受からず。海苔の会社に就職し、百貨店で海苔製品を売る仕事に就いた。学生時代にも百貨店の子供服売り場でアルバイトをしていたことがあり、接客は慣れていたし、好きだった。海苔はお歳暮・お中元の定番で、よく売れた。接客でお客さんとお喋りすることも多く、何人も “いい感じのマダム” から「息子の嫁に来てほしい」と言われた。そんな時はニコニコしながら「えー、そんなー」という感じで断ったものだ。百貨店の仕事は朝早くから夜遅くまでで大変だった。お中元の時期は朝 7 時から 22 時まで立ちっぱなしの仕事。百貨店内で色々あったこともあり、この海苔の会社は1年弱で辞めた。その後、経理の仕事に就く。結婚は 23 歳の時に、知り合い繋がりの男性と。社会に出てからスキーやテニスなど、ハマった事は毎週通いのめり込んだ。長男が産まれたタイミングで5年ほど勤めた経理の仕事は辞め、専業主婦になる。2年後には長女も産まれ、家族は4 人になった。その長女が保育園に入り多少の余裕ができたため、仕事を探し始めた。近所の奥様から「介護の仕事もいいよ」と勧められたのがきっかけで、介護の資格を取る。子供が学校から帰ってくる頃に家に戻れるようにと訪問介護の仕事をはじめ、2か所の事業所に登録ヘルパーとして登録し、多い時には週7日、朝から夜まで仕事をした。一番初めに担当した男性の利用者様は、気難しい性格で他の職員も手を焼いていたが、私は特に苦も無くお仕事できた。ある日の援助終了時、ふいに「おーい、ありがとうな」と感謝の言葉を初めて掛けられた。それがこの方との最後の会話になった。
何度教えても自宅のカギを閉められなかった長男が、ようやく「扉を閉めてカギをかける事」ができるようになったタイミングで、正職員になるために大規模デイサービスへ就職した。年齢は 30 代半ば。そこは医療法人が運営する 40 人規模のデイで、他にクリニック・デイケア・特養・保育園等が一か所に集まった大規模施設。季節行事が盛んで、1週通しで芋煮会があったり、流しそうめんではトマトやブドウも流して食べ、敷地内の園児との交流機会もあった。機能訓練用のマシンは7台も導入されていて環境面では恵まれていたものの、当時から慢性的な人手不足で常に人員はギリギリだった。40 人を超す利用者様が過ごす日中のフロアを、職員がたった一人で見ることもあった。事故があればナースが対応してくれるものの、利用者様のレベルはごっちゃに集められカオスな状態。マシンで怪我をする方、ピアノにおしっこをする方、血の海に倒れて泳いでいる方、トイレットペーパーをおしりから垂らしている方を見つけては、手早く対処していった。お昼は同時に4人の食事を介助しながら、自分の昼食も掻き込む。さすがに5 人同時の食事介助だと座ったままでは対応できないため、『同時の食事介助は最大4人』に落ち着いた。トイレに行きたくても “フロアに職員が誰もいない” という訳にはいかず、トイレに行けなかった。そのため膀胱炎に何度も罹り、仕事の前後で併設のクリニックを受診するのが日課だった。4年位務め、膀胱炎が辛いためそのデイは辞めた。
次は少し小さい施設を探し、サ高住(サービス付き高齢者住宅)併設型の 20 人規模のデイに正職員として就職。ここで勤めれば、どこでも働けるという自信がつくような所だった。デイの利用はサ高住に入所されている方が主で、自立に近い方から要介護5の方までレベルは色々。要介護5の方も多かったが、それでも針を使った制作をしたり、市の展示会にも出品して楽しかった。しばらくすると人手不足もあって、通常のデイ勤務に加えて、サ高住での勤務もするようになった。私は夜勤をやらない代わりに7時から 20 時までのぶっ通しの勤務がざらにあり、休憩も残業代も無し。給料も以前の訪問介護の方が稼げていたほど安かったところ、所長が上に掛け合ってくれて改善した。昼のデイは毎日 15 人程度の利用者様を、ひどい時には新人の男性と、私、看護師の3人でレク、食事準備や介助、排泄介助、入浴介助、送迎まで全部対応した。また、夜のサ高住は一人勤務のため、どんなことがあっても基本は一人対応。夜間の見回りから定時のおむつ交換やトイレ介助、呼び出し対応など休む暇はない。看取りになるような方も複数名おられたが、サ高住に看護師の配置義務はなく、大抵の事は介護職員が対応していた。それでも職員がみなよくできる人ばかりで楽しく仕事ができ、質の高い介護が提供できていたと思う。特に 30 代半ばの男性所長はめちゃくちゃ良い人で、いつも利用者様の事を考えていて、忙しくても虐待のような事は皆無だった。しかし人手不足は深刻で、その所長もサ高住のワンオペ夜勤に入る事が多く、欠員が出ると次のシフトも寝ないで働き続けていた。そのため日中の仕事は何でも任されるようになり、見学の対応から契約、レセプトの請求まで行った。月末月初は気付くと2週間休んでいない事もざらにあった。そんな激務の日々だったが、人とのつながりを感じ、いろんな方の人生を垣間見ることができて楽しかった。ここには私の介護人生で一番長い5~6年在籍し、相談員を目指して転職した。辞める時は沢山のご家族や、理事長の奥様までもが引き留めてくださり嬉しかった。