「府中市役所です。交付金の事で…」すっかり信用して振り込んでしまった方が。最近、毎日のように詐欺の電話が掛かってきます。皆様に詐欺の対策を聞いてみました。「電話に出ても “耳が聞こえません。息子が8時に帰りますので、その時に電話をして下さい”」と言う、「そもそも留守電にして電話には出ない」等々。「私は騙されない」と思っている人ほど危ないそうです。
それでもカイゴで生きてゆく【後編】
次の職場もサ高住。昔からある大手のところで、“ちゃんとしている” と思って正職員の相談員として入職した。 入職早々、複数のスタッフが「すぐにわかるよ」と言い残して辞めていった。人がいないため、施設ケアマネジャー と共にコール対応や巡回、あらゆる介護業務もこなした。自立の方が比較的多い施設だったが、稼働率は6割強と 低かったため、管理者は営業へ奔走し重い方や、生活保護の方で部屋を埋めていった。重い方が増え、より一層スタッ フの数もスキルも不足する現場は、混乱した。しかも救急搬送など突発的な事があれば、21 人の入居者を一人で見 ることも度々あった。そんな時は、救急車が到着する前にできるだけ多くの方を食堂に集めて対応した。ここでは 相談員としてスタッフを指導する立場にあったが、現場は拘束、言葉による抑制、虐待行為が日常的に行われていた。 改善に力を尽くしたものの、国籍にもよるが外国人介護職による文化の違いはどうにもならなかった。サ高住に併 設した訪問介護事業所から介護を受ける方が多く、そこには日本語が話せない外国人ヘルパーも数人いた。彼女た ちによる重大なモラル違反を市役所に届け出て、市役所案件になったこともある。看取りの方も少なくない中、施 設の看取り対応にも疑問があった。最終的には会社が買収され、夜勤を命じられたため 1 年ほどで退職した。
その後、日勤のみで OK の施設をエージェントに探してもらい、6人部屋が6~7室ある従来型の特養へ入職した。 重い方が多く、拘縮や寝たきりの方も多かった。ストレッチャーでいつも横になっている無反応な方に語り掛け続け たところ、笑顔が出るようになった時は嬉しかった。余命僅かとわかっている方にも積極的に明るく声を掛け、でき るだけ綺麗な状態を保てるように努めた。ここは男性スタッフが半分近くいて、正に体育会系といった現場。スタッ フ同士も積極的に声を掛け合って、チームワークはとても良く、スタッフは良い人ばかりだった。「みんなでやろう!」「が んばろう!」と助け合い、大抵定時で上がれた。体力的にはかなり大変だったものの、雰囲気が良かったためか離職 率は低かった。しかし、パワー介護で怪我をするスタッフが多く、腰をやって入院、一時的に車いす生活になったスタッ フもいた。1年が経った頃、私も利用者様をベッドに移乗する際にろっ骨を骨折してしまった。それでも嫌な顔ひと つせずに「見守りだけでいいから!」「デイに来る?」と温かく声を掛けてくれた仲間に対し、逆に申し訳なくて退職した。
次は知り合いの紹介で 40 人規模のデイサービスへ正職員として入職した。センター長はレクリエーションやイ ベントが大好きで、活気があるデイだった。一方で重めの方も多く、一日に何人かは全介助の方を介助し、その他 にも食事・排泄・入浴等の介護からレクの準備に加え、スタッフ全員で書類の管理や作成もした。やることの幅が 広く毎日クタクタになり、これではとても 60 歳まで働けないと考え、以前から興味のあったクリニックの職をを 探した。たまたま正職員で募集していたのが透析のクリニックで、看護助手として働きはじめる。トイレ介助や移 乗・移動などの雑務全般を一人でこなすため、ずっとバタバタと動き続け、ゆっくりお話をするような時間は無く、 体力的にもしんどかった。こちらも 60 歳まで働ける気がせず1年で見切りをつけて辞めた。70 歳まで働けるとこ ろがないか探していたところ、“デイサービスももたろう” のホームページが目に留まった。少人数かつ通えそう な距離のデイで、やっている内容もスゴイ。しかも1階と2階の2単位制で、より密に接することができそう。理 想の介護がここにあると思い、門をたたいて早7か月になる。常勤職員として週休3日を選択し、余裕をもって働 いている。今は主に制作を担当し、訪問介護も週1日行くようになった。ここは充実した活動や屋外での運動機会 もあり、スタッフの配置にも余裕がある。落ち着いた雰囲気がまた良く、理想に近い介護ができている。
色々大変な介護の仕事をなぜ今も続けているかというと、人との関わりや、その人の人生を垣間見ることができて楽 しいから。ただ、介護を自分が受けるとしたら “ん?” と思うことはあるため、特に訪問介護での対応は一番気を遣っ ている。息子と娘には小さい頃から「相手の立場になって、考えてから発言や行動しなさい。自分が言われたり、され たりしたら嫌なことはしないように。考えることで遅くなってもいいよ。」と小さい頃から言い聞かせてきた。体が弱かっ た娘も 28 歳になった。最近その娘から「何も考えないで発言できる人は楽だよね」と。同僚から『コミュ力お化け』 と称される娘は、技術力と話術を駆使して池袋で美容師として頑張っている。小学生時代はランドセルを持たずに学校 へ行く事も度々あったが、自己責任として手助けはしなかった。高校時代は、自ら男子バレー部のマネージャーを務め、 高校卒業後は自分で選んできた美容学校に2年間通った。就職先を探すために、自ら有名店から評判の良い店まで何店 舗も客としてまわって決めた就職先。最初は立川の店で働き、池袋に移った後も若い方からおばあちゃん位の方まで池 袋まで来て指名して下さるそう。今の美容師は高い技術を持っていても、トーク力が無い人が多いらしく、先日はパイ ロットの卵の男性から「話ができて楽しかった」と言われたらしく、仕事は「楽しい、いつまでも続けたい」と言っている。 息子は小さい頃から憧れていた公務員を経て、公認会計士になった。息子が通った幼稚園は、ピアノ・習字・バイオリン・ スイミング・サッカー・体操・パソコン・英語と何でも習わせてもらえる幼稚園で、息子は全部習った。入園した理由 は道路を行き交う「汽車のバスに乗りたい」と聞かなかったから。小学校低学年のころは鍵が閉められなかった息子も、 扉を閉めて鍵が出来るようになった。中学から高校にかけて反抗期で家の壁にいくつも穴が開いた。その甲斐あってか 高校でボクシングに目覚め、学外のボクシングジムに通い、柔道もやっていた。最近知ったが、その頃に保護犬の施設 へボランティアに行っていたそうだ。高校はそれなりの成績だったのに大学へは行かず、憧れていた公務員になった。 3年ほど働いた頃、ラジオで聞いた先生の話をきっかけに「公認会計士になる」と決め、公務員を辞めてその先生の学 校に通うようになった。アパートを借りて一人暮らししながらの猛勉強。働いていた時に貯めたお金とアルバイトでギ リギリの生活をしていたため、ガリガリに痩せていった。試験には3度目の正直で合格し、その後実務経験を3年間、 終了考査合格を経て晴れて公認会計士になった。現在 30 歳。自ら切り開いた道を歩み、充実した日々を送っている。
子供たちの学費支払いが終わったら犬を飼おうと決めていたが、息子が大学に行かないと言いだしたため、気持 ちを落ち着けるためにパグ犬を飼い始めた。それが夜勤をしなかった理由でもある。その愛犬も1年前に亡くなっ た。新しく犬を迎える気にはまだなれず、今後は保護犬の活動に携わってみたいと思っている。息子が高校生の頃 にお世話になった保護犬の施設へも連絡した。『自分だったらどうされたいのか』を常に問いながら、相手の気持 ちになって、これからも誰かの人生にそっと寄り添えるよう穏やかに生きていきたい。