▲ クリックでPDFファイルを表示


暑い暑い夏が終わって、急に冬の気候になりました。室内の空調は冷房から暖房に急に替わり、厚手のコートをお召しになって来所されます。季節の変わり目も、皆さまお元気にお過ごしです。美味しい昼食とお散歩のお陰と感じています。昼食は殆どの方が完食です。お弁当箱だと食が細い方は、お茶碗にお米を移し、その上におかずをのせて召し上がっていただいています。

腹の底から

 生まれは、東京都北区の東十条。幼い頃に引越し、本郷にある二階建ての住宅で育った。母と父は、本郷にあった出版社の博文館に勤めていて、同僚同士での結婚。兄弟は8人で、私は一番下の末っ子。一番上の兄とは20 歳違っていて、一番近い姉とも5歳離れていた。小さいころに亡くなった兄妹もいたため、実質的に6人兄弟だったものの、それだけいたら喧嘩が絶えなかったと思われるかもしれない。しかし兄弟が喧嘩をしているのを見たことは無い。母は気丈な性格で、弱音を吐くようなタイプではなかった。愚痴を聞いたことも、母に怒られた事も記憶に無い。中学時代にその事を友人に話すと「そんな訳ない!」と言われたため、母に直接聞いたことがある。すると母は「あなたはちゃんとしているから、怒る必要はなかった」と言われた。

 私は、戦前の昭和15 年生まれ。昭和20 年、5歳の時に住んでいた本郷で空襲にあった。母の背中に黄色と黒の“ねんねこ半纏”で縛り付けられて逃げた情景を鮮明に覚えている。本郷の自宅は焼けてしまったため、父の弟が住む栃木に身を寄せた。そちらで4年ほどお世話になり、小学校3年生の時に栃木から浦和へ転居した。浦和の小学校は、栃木の小学校に比べて学力的に進んでいたため、初めの頃は勉強で苦労した。また、幼少期を過ごした栃木の方言に染まっていたので、バカにされたり、はやし立てられたりした。できるだけ標準語で話すように努め、あまり話さなかった。中学校でダンス部に入る。部活の顧問がダンス部と器械体操部の両方を見ていた女性の先生で、「あなたは身体が柔らかいから、器械体操の方が向いている」と言われ器械体操に転向した。高校でも器械体操がしたいと思い、器械体操部がある高校を志望した。そもそも当時は中卒で働く同級生が多く、落ちたら就職するつもりでいたため、そこまで熱心に受験勉強をした訳でもないし、まして勉強は嫌いな方だった。器械体操ができる学校は周辺に2校しかなく、家から歩いて行ける距離の『浦和第一女子高校』の一般入試を受けた。当時から歴史あるハイレベルな高校で、私の学力から考えたら手の届かない、まさしく高嶺の花だった。しかも入試を受けたのはこの一校のみ。選択問題中心の筆記試験で、たまたま運がよかったとはいえ、合格の知らせを受けたときは皆が大層びっくりしていた。

 高校生時代の部活は、学習院から指導の先生が来てくれていた。学校では試験期間中でも、試合が有ると練習をした。夏休み、冬休みには合宿があり、試合前にも学校に泊まり込んで合宿した。器械体操で国体にも行った。秋田・青森・大阪等々、全国を遠征するとお金もかかる。大きな大会だと県や国からかお金を出してもらえるが、その他にも寄付を募り、母にそこまで負担を掛けずに済んだ。1年生の時から、補欠だったものの大会へ連れて行ってくれ、2年生からは正式に5人チームで参加した。3年生の時には団体戦で関東大会優勝を勝ち取り、方々の中学から呼ばれて模範演技を披露した。そんな器械体操中心の高校生活であったが、近所の男子高である『浦和高校』の生徒と全日本大会で一緒になった際、会場近くの海で一緒に遊んだ。その後も運動会に来てくれたりしたが、気恥ずかしさもあり、何もなかった。

 高校卒業後は、日本電信電話公社(NTT)に就職。千代田区にあった三千人の交換手を擁す東京市外電話局の電話交換手になった。その入社祝いで課長さんがして下さった白虎隊の“詩吟” に感動し、「私も出来ますか?」と言って会社の詩吟サークルに参加することになった。サークル参加者は高齢の方が多く、部長や課長級の人たちばかり。場違いに感じたが、「若い女性が来た」とを皆さんが大事にして下さった。詩吟は、漢詩や和歌、俳句などに独特な節をつけて、吟じる日本の伝統芸能。お腹から声を出し、声のみで詩の内容や情景を表現する。何年か詩吟をして、コンクールへの出場や初段合格を果たした。先生に代わって教える「代範」もするようになった。働く部署は違っていたが、詩吟のサークルで知り合った背の高い一歳年上の男性と、帰りの方面も一緒だったこともあり親しくなった。私も27 歳になっていたので結婚し、妊娠したため10 年勤めたNTT を辞めた。そして長男が4~5歳になった頃に、自宅で詩吟を教えるようになった。最初は友人に、最終的に70 人ほどに教え、10 人ほどを師範に育てた。詩吟はお腹から声を出すのが気持ちよく、一度やると途中で止める人はほとんどいない。

 子供は3人。私も母のように、子供たちに怒ることはせず、「勉強しなさい」と言ったこともない。自由にしたいことをした長男は弁が立ち、いくつもの事業で成功した。大國魂神社の近くに家を構え4人の子供がいる。重度障がい者施設に勤める長女も近くに住んでいて、毎日のように来てくれる。次女は生まれつきの障がいがあり、成人する頃まで自宅で過ごし、その後は施設で生活している。月に一度、長女の運転で会いに行っている。主人は定年までNTT に勤め、一緒に生活している。喧嘩をすると疲れるので、年をとってからは喧嘩をしなくなった。口うるさいため、心の中では腹がたつが「馬耳東風」だ。何といっても長年連れ添ったトイプードルがかわいい。毎晩一緒に寝て、デイサービスの日は悲しそうな目で送り出してくれる。

 若い頃は、病気もせず元気だったものの、数年前から色々な病気になって入退院を繰り返した。1年位前には帯状疱疹の合併症にもなってしまった。闘病もあって、しばらく詩吟をすることもなかったが、9月から通っている “デイサービス ももたろう” で久しぶりに詩吟を披露し、気持ちが良かった。今までの人生、自然な流れでここまで来ることができた。頑張ったと感じたこともない。心臓も悪く、担当の医者から「急に亡くなるかもしれない」と告げられた時には、「それがいいわ」と言い、医者に笑われた。みなが自立しているからこそそう言えるのであって、すごく幸せなことだと思っている。

? ?