▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


先月末に初めての夕食会を開催しました。一人住まいの方から「一人で夕食を食べるのは寂しいわ」との言葉を聞いた料理上手なスタッフが中心となり、定員を超えた8名で、2時間大変盛り上がりました。昼間なかなか話せない話もでき、心もお腹も大変満足して下さいました。2月は『カラオケ&ランチ』の会を企画しています。夕食会同様、心から満足していただけるように準備を進めております。

38度線を越えて

 私が生まれたのは、北朝鮮。北朝鮮出身と言うと、「え!?」と驚く人も多いが、父は茨城県水戸市に現在も「日本農業実践学園」として残る農業学校から、農業指導者として朝鮮に派遣されていた。背が高く、ハンサムで立派な人。母は山形県米沢市の出身で、「ミス米沢」になったほどの美人。どことなく私に似ている。
 朝鮮では30,000 坪の大きな牧場で、牛や馬を育てていた。父と母は、特に勉強したわけではないが、朝鮮語を話していた。兄弟は姉1人と、弟・妹2人ずつの計6名、小学校4年生まで日本人学校に自動車で通っていた。お手伝いさんや労働者として、日本人も朝鮮人も大勢出入りしていた。そんな豊かな生活も、終戦を堺に突然終わった。
 私達の部落は日本人が400 人ほど住んでいたが、ほぼ全財産を残してこの地を離れることになった。38度線を越えれば安全と言われ、3~4家族ずつに別れて38度線を目指した。昼は山奥に隠れ、夜になるのを待って行動した。幼い妹と繋いでいた手を、鼻をちょっと掻こうと離したとたん、妹が危うく崖からころげ落ちそうになったほど、急で険しい道を毎夜毎夜歩いた。小さい妹達は、泣きもせずによく歩いた。途中、ソ連兵に捕まって収容所に連れて行かれた。そこは一部落を借り切った集落で、食事は日本食でちゃんとしたものだった。この当時、ソ連の捕虜となった人たちは大変な生活を強いられたといわれているが、私達の収容所は建物もごく普通で、昼間は畑の仕事をやらされる程度だった。親子一緒の為、寂しいとか怖いという感じずに生活をしていた。「早く38度線を越えて、日本に帰りたい」と、3家族ずつ逃げることにした。しかし、又ソ連兵に捕まり、連れ戻された。何度目かの脱出でようやく川を渡り、38度線を越えた。その後は引き揚げでごった返す汽車や、大きな客船に乗り日本に辿り着いた。
 一度母の実家の米沢に行ったが、すぐに茨城県鹿島郡の開拓地に入り、3,000 坪の農地を買い求めて農業を始めた。この時も学校まで車で送迎してもらい、女中さんや労働者が多く働いていた。現在、この場所は自動車教習所になり、弟が継いでいる。
 女学校を卒業して上京、20歳で職場結婚をする。主人は父に似て背が高く、ハンサムでやさしい人だったが、何年か前に肺がんで亡くなった。今は一人娘の夫婦と孫、4人でゆっくりと生活している。ひ孫も3人いて幸せな日々。それでも79歳の今、一番幸せだった、楽しかった、嬉しかった日々は、帰ることのできない故郷、北朝鮮での豊かな日々。
 ◆◆◆
 「辛かったのこと?なーんにも無いわよ」と笑うお顔に、苦労や苦悩を読み取ることは困難。とにかくポジティブなY様は、何でも笑い飛ばす性格で大変お元気。ももたろうのムードメーカー的存在で、日々場を和ませて下さっている。笑顔の際に覗く歯は特にご自慢で、全部ご自分の歯だとか。寝過ごしてしまった朝であっても、歯磨きは必ずされて来所される。

0