▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


89歳の方が、所長の私の姿を見ると必ず「若いわねー」と。「若いのよ。本当は若くないと思っているんでしょ!?」と、すかさず返す日々。先日「1時間の筋トレより、その時その時の背筋伸ばしの方が効果がある」ことを教わりました。パソコン作業中に背中が曲がっていると、「おっといけない!」とお腹に力を入れるようにしています。日々の生活に気をつけ、「見た目も若い!」と言われる様に努力しています。

人生、我慢と笑顔

 私は北海道函館に生まれ、父はある衆議院議員の秘書をしていた。なに不自由なく生活していたある日、父は冷たい海に飛び込んで、自殺した。享年47歳、私が小学校1年生位の頃だ。理由は、先の議員が起こした失態の責任をとるため。その時から、私の人生は大きく変わり始めた。父の代わりに兄が働きに出、私は姉のところに預けられ、慣れない田舎暮らしがはじまった。母も付き合いがあった弁護士からお金を借りては、慣れない仲買人のような仕事をして生計を立てていた。皆で必死に生き、家族に助けられて小学校を卒業したが、高等学校の受験には失敗した。落ち込んでいると同郷の教師から「函館の女学校に行かないか」と誘われ、函館に舞い戻ることになった。時は大戦末期、函館までの電車内で米軍による無差別攻撃にあい、物陰に隠れながら歩いて函館まで向かった記憶がある。
 卒業後は函館で一番大きな映画館に8年間勤め、主人とも映画館で知り合った。主人は東京の人だが、何度も映画を観に来ては言い寄ってきた人だ。最初のうちは知らんふりをしていたが、「生きるか死ぬか、海に身を投げる」と告げられ、本当に身を投げてしまった。周囲からは猛反対されたが、人助けと思って結婚し、子ども3人は函館で産んだ。
 主人は東京でタクシーの運転手をしていた。真面目に働いてくれれば3人の子どもと家庭は平和だったのだが、給料を前借してギャンブルや女性につぎ込んでいた。主人は女性の存在を隠そうともしなかった。私達の生活が苦しい中、女性から生活費を無心されもしていた。それでも、子供達に悪影響を与えるぐらいなら、と、黙って言われるままにした。主人は競馬も好きで、府中だけではなく川口や船橋にも行き、帰りの電車賃がなくなると「電車賃を持ってきて欲しい」と、よく電話がかかってきた。急いで持って行ったものだが、いつからか質屋に入れるための時計を持たせるようになっていた。
 四十を過ぎ、子育てが一段落した頃、昼間キユーピーの臨時社員としてマヨネーズを作り、夜は主人と興した焼肉屋を切り盛りしだした。調理師の免許を活かして、給食センターでも働いていた。そんな仕事に明け暮れていた五十歳の時、乳がんが見つかった。「がんは絶対に治る」と信じ、あまり悲観もしなかった。末期のがんで死が迫っている隣の患者を励まし続け、介抱も買って出たものだ。それ以来仕事は止め、左乳は切除しペッタンコになった。人に見られたくなかったが、娘から「乳がんで手術したらこうなるって、みんなに見てもらおうよ」との言葉がきっかけで、その後は温泉やお風呂に行けるようになったものだ。
 主人は十年前に亡くなった。最後は認知症が重くなり、数カ所の病院でお世話になった。「ご主人に対する恨みは無いの?」と聞かれるが、「ギャンブルが好きな人だから、仕方がない」と、笑って答えている。「喧嘩をしたって、良い事は何もないでしょ?人生は我慢が大事」。きっと母の背中を見て育ったからだろう。
 現在82歳。生活が苦しい時も周囲の人に助けられた。だから私も人を助けたい。お金をあげることは出来ないが、言葉や笑顔で人助けをしている。優しくされた人は、その人も優しくなるから、絶対に他人をいじめることはしない。顔を知っている人には必ず笑顔で挨拶し、いつも笑顔を絶やさないようにしている。そんな私の自慢は、新築から40年間住んでいる南町団地で、一度も揉め事を起こしたことが無い事。今は一人で生活しているが、団地内の知り合いも多く、寝る前には決まって娘に電話しているから、寂しいと感じたことはない。周囲の人々が幸せであることが、私にとっても、一番の幸せ。
 最後まで、笑って生きてゆきます。

0