▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


先日、嬉しい退院報告を頂きました。「“ももたろうさん” で作った作品を見て、看護士さんが驚いていましたよ。同じ部屋の人は勿論のこと、両隣の部屋の人も見に来てくれました!」と。体調を壊されて入院中の奥様を元気付けるために、ご家族が奥様の作品(習字や押絵)を病室に持って行かれ、とても喜んで下さったそうです。退院報告と一緒に「感謝を伝えたい」と、わざわざお電話を下さいました。

声なき日記と、過ごす日々

 結婚は25歳の時。当時の女性としては決して早い方ではなく、むしろ遅い結婚であった。8人兄弟の長女だったので、親からも「早く早く」とせかされていた。私には意中の人がいたが、親は財産や不動産を持っていない人との結婚を許さなかった。ある時、実家の裏の家で行われた葬儀で、「あの人はどうか」と紹介されたのが主人だった。建築業を手広く営み、住み込みの弟子が5人もいる実業家。羽振りもよく、第一、顔が良かったため、誰も反対しなかった。もうどんな人でも良いという捨て鉢の気持ちで、深いお付き合いをすることなく結婚した。
 私の実家は八王子にあり、10人家族であったが、お金に困ることはなく裕福な暮らしをしていた。習い事は全てさせてもらっていたし、教育や教養もきちんと仕込まれた。それに、長女だったこともあり威張って生活をしてきた。お金も「ここにあるお金を使ってもいいよ」という感じだった。それが、結婚を期に大きく変わった。
 主人は8人兄弟の長男。義理の母は早くに亡くなり、義理の父は外に女性を作ってほとんど帰ってこなかった。家には寝たきりの義理の祖母、7人の兄弟、住み込みの弟子が5人。一番下の弟はまだ小学生だった為、朝はランドセルを背負わせ、弁当を持たせて登校させた。毎食15人分作り、弟子の弁当も用意した。食費も多くかかり、家計が底をつくと主人からお金を貰うという生活だった。「お金を下さい」という言葉は、屈辱的で本当に辛かった。お金以上に辛かったのは、「テメエ」「うすのろ」「ガメタ」等々、実家では決して使わない、聞いたこともない言葉を結婚してすぐから浴びせられた事だ。一度だけ、弁解じみた言葉を言った事がある。すぐに顔を殴られた。それ以来、一度も「口返し」をしたことが無い。
 結婚して3日で帰ろうと思ったが、実家からしたら長女であり、初めての嫁入りだ。とても実家には帰れなかった。毎日毎日家事に追われる生活の合間に、日記を書き始めた。短歌の会にも入って心の平安を保った。当時の短歌が入選し、今でも覚えている。意中の男性を詠んだ『一・二言交わした君なれど、夜べの思推を全部しめる』。実家に遊びに行った隙に、和歌の雑誌や華道の免状は全て燃やされていた。怒る事も泣く事も出来なかった。
 子供は三人生まれた。男を産まないと追い出すとまで言われながら、三度目でようやく男の子を授かった。今まで子育てに無関心だった夫が、お宮参りの手配から、近所の方に飴を配ったりと豹変したのを覚えている。主人は旅行が好きだったのか、海外旅行へ何度も出かけていたが、家族では海水浴にも行った事が無い。それどころか、家族全員で笑いあった事も、記憶にはない。
 結婚生活35年、主人が60歳で息を引き取るまで、日記は一日も欠かさず書き続けた。涙で消えた文字もある。今から思えば、「よく発狂しなかったな」という思いが強い。親兄弟にも言えない事を、この日記帳が全て吸収してくれた。
 代議士からの花輪で埋め尽くされた立派な葬儀を終えた後も、相続やら色々な手続きが大変だった。ゆっくり落ち着けるようになってから、初めての海外旅行へ出かけ、主人と同じように異国の地を歩いて周った。主人とは旅行にも行けなかったが、せめて一度でも夫婦喧嘩をしてみたかった。自分の思いを、はっきりと言葉に出して表現したかった。
 この、声なき日記はどうしようかと思っている。残してしまうと息子は困るだろうし、少しずつ処分しながら楽しい事を探すようにしている。今は週1回の“ももたろう” や、妹とゆっくり食事に行くことを何よりも楽しみにしている。
 現在87歳。62冊目の日記帳には、穏やかな文字が並んでいる。

0