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おやつ後の 30 分間は、民謡・民話・脳力テストをしています。最近『60 歳からのボケないための脳力テスト』(永岡書店)を購入し、この本にある漢字テストをしました。「配■」「■者」「使■」「■割」、この■の中に同じ漢字が入ります。5 問出題し、それぞれ違う方が正解されました。「こういうのは、皆でするから頑張れるのよね」と、まさにデイサービスならではの活動だと感じています。

ハロッズでも大阪弁

 私は大阪生まれ、奈良育ち。奈良の女学校を卒業するまでは、寮での共同生活が続いた。戦時中だったため、最初の2年ほどは授業もしていたが、その後は先生も出兵するようになり、殆ど授業はできなかった。体育館のような大きな場所で正座をし、薄い座布団に座って、毎日毎日兵隊さんの小物を1日中縫っていた。他にも千人針を近所の女性に頼みに回るような毎日が、私達の日常だった。戦況が悪くなると、度々食糧は遅配され、時には欠配となった。食事当番は「はこべ」や「ヨモギ」「タンポポ」を摘んでくるのが仕事になっていった。実家から米なども送ってもらったが、お腹一杯食べることはできず、成長期にも関わらず身長はあまり伸びなかった。学校の運動場は、戦地に行かない中年男性の訓練場になっていた。運動場の端には、生徒と先の男性達とで掘った防空壕が口を開けている。空爆される事はなかったが、轟々と轟音を立てておびただしい数の爆撃機が頭上を通過していった。しばらくすると金剛山が、夕焼けのようなオレンジ色に輝くのを見た。山の向こう、大阪が燃えていたのだ。今でも思い出す、何とも言えない辛い光景だ。
 戦後は、女学校を出ていたこともあり代用教員をした。ただ、1年もしたかどうか。その後、大阪の専門学校で学び、商社へ入社。職場で出会った主人と結婚し上京、田園調布に移り住み、数年を過ごした。東京の人はいつも着飾っており、サシゲタを履いているよう。何か嫌な事があっても直接言わない割に、「ざます言葉」で気取っている感じが嫌だった。東京に来て一番驚いたのは、皆どこで買って何を食べているんだろうという不思議。東京湾が近いのに魚はまずいし、商店では「売ってやるんだ!」という態度がありありと見えて好きになれなかった。大阪では『公設市場』があり、新鮮な食べ物を山と積んで売っていた。「これ、おまけ!」とか「ちょっと負けといてや!!」と、買い物も社交の場だったものだ。
 私は、どこに行っても関西弁を喋っていた。主人の仕事でイギリスのロンドンで4年ほど生活した事がある。英語は女学校で“ABC” を習った程度で、全く出来なかった。しかし、日本人が多い町ということもあり、全て関西弁で押し通した。言葉で不自由は感じず、ロンドンの高級スーパー『ハロッズ』でも関西弁を話し、気取らず普段着で通っていたが、意地悪される事もなかった。裏庭にキツネが遊びに来るほどの緑豊かな環境で、休日には友人を招いたりして、快適な生活を送っていた。たまにはフランスへ食事に出かけていたし、アメリカでも生活した事がある。フランスは料理こそ美味しいが、畏まっているのが居心地悪かった。アメリカは雑でせわしないが、豊かな国。「こんな国と戦って勝てるわけが無い」と強く思ったものだ。
 東京での生活はもう60年以上になる。関西での生活の倍以上になるのに、まだ関西弁を話している。私は、自分のしたい事をして、他人の事はあまり気にしない性格。他人に合わせようとはしないため、なかなか友達ができない。「関東と関西」で何かと比較される事も多いが、私からしたら、もっと言いたい事を言って、やりたい事をやった方が良いのではと思う事がある。関西人は、ざっくばらんで気取らないところが好き。
 そんな私も、東京の生活にはもう慣れた。今は、主人と二人で生活をしている。主人は、めったなことでは怒こらない人だが、何を言っても「うん」とか「そー」だけで喧嘩にならないが、会話にもならない。“デイサービス ももたろう” には週2日通っている。ここでは、色々話が出来るから楽しい。先日、アウトドアで『郷土の森博物館』や『府中の森公園』に行った。府中に長いこと住んでいるが、なかなか一人では行けないところに連れて行ってもらえて楽しい。現在86歳、まだまだ元気で足も丈夫。これからも、変らずに生きていきます。

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