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「テレビで見たことがあるけど、目の前で見たのは初めて」「びっくりした」「不思議!」と、目の前で繰り広げられる手品に皆様感激されました。以前何度か披露して下さった、男女ペアの手品ボランティアの方による、約2年ぶりの再演でした。男性は70歳から、女性は66歳から手品を勉強されたそうですが、見事な手さばき。驚きや、「ウワー」と言う感動が脳を刺激し、心身ともに良い影響があります。手品は最高のサプリです。

灯りを、つくる

 生まれは、東京・恵比寿。当時の自宅は恵比寿通りにあり、父親が電気ランプの傘を作る工場を経営し、従業員も何名か出入りしていた。私達家族は工場の2 階を住居にして生活していた。戦争が始まると、ランプ傘では生活できず、父は軍需関連の仕事を始めた。工場を転用し、火薬を入れる筒を作っていたが、戦争が終わると、またランプの傘を作る仕事を始めた。
 私が二十代の頃だと思う。あるドイツ人が恵比寿の工場を訪れ、「電気ランプの傘を作って欲しい」と言った。どのような傘が良いのか解らず、姉と私とドイツ語の通訳の3 人で、ドイツのベルリンに行くことになった。日本はまだ戦争の痕跡が多く残っていた時代だが、当時のドイツは道路も広くて綺麗だった。ビルばかりの建物群も素晴らしく、見るのも聞くのも驚くことばかり。ドイツのランプ工場も、天井が高く、大小様々な傘を作っていた。フロアスタンド型のランプで、ホテルのロビーや客室に使われるという、豪華な物だった。10 日間位滞在し、日本に帰国。その後はドイツの生地を使った傘も作るようになり、ナショナルや東芝、日立にも卸し、よく売れた。私の仕事は、裁断やミシン縫いの他、会社全般の仕事をしていた。女性の従業員も10 名位雇い、この頃には和栽・洋裁・編み物と、大概のものは自分で何でも作れるようになっていた。
 主人とは34 歳の時に結婚。友人の同僚で、事務の仕事をしていた9 歳年上の男性だ。しばらく仕事を手伝ってくれていたが、時代のあおりを受け、会社は倒産した。その後主人は洋菓子屋に就職し、私は馬込にある母の実家で、姉と二人で傘の布地を裁断したり、縫製する仕事をした。
 子供がいなかったので、主人とは二人だけでよく外国旅行に行った。ドイツ・フランス・スペイン・ソ連・中国・台湾。主人は、フランスに行くなら『フランス語』の学校に行って勉強し、スペインに行くなら『スペイン語』の学校に行き、必ずその国の言葉を習得して行った。私は主人に付いて行くだけで楽なものだった。主人は背が高く、私は小さい。歳の差もあり、外国では親子と見られていたかもしれない。二人並んで歩いたフランスは、きれいな街並みが大好きだった。ソ連は、駅のエスカレータの長さにびっくりした。地下深くにあるプラットホームには、大きくて豪華な、それは素晴らしいシャンデリアが下がっていた。主人との思い出は、何と言っても2 人で世界中を旅行したこと。私の人生を一言で表すと、「楽しい人生だった」。
 その主人は、昨年の8 月4 日から何も食べなくなり、入院後一時帰宅したが、9 月4 日に亡くなった。94 歳だった。優しい人で、9歳の歳の差を感じたことは無かった。入院するまで、毎朝5時30分に起きては、朝日が昇る多摩川の土手を、ゆっくりと一緒に散歩していた。
 主人が亡くなって早1年が経つ。横浜に8つ下の妹がおり、週4日位2 時間掛けて通って来てくれているが、それでも寂しい。もう、長く生きたくないのが本心。今一番の楽しみは、明るい方々が集まる“ももたろう” に行くこと。皆に「長く生きたくない」と打ち明けると、「ダメ。生きなくては!」とか「生きる権利があるのよ」と、力強く言われる。私には趣味の手芸がある。私もここで、趣味を楽しみながら、皆さんと力強く「生きていこう」と思います。

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