▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


先日のハロウィンに、近所の小学生が素敵なドレスを着て「チョコレートを下さい♪」と、遊びに来てくれました。「私の子供の頃と一緒ね」と言ったとか、言わないとか。【クリスマス会】12 月 5 日(土)午前中に、今年も「本町2丁目公会堂」で開催します。皆さまの出し物として「ソーラン節」を歌い踊ります。最近の民謡ばやりを反映し、民謡で始まり、民謡で終わるクリスマス会も乙かなと思っています。その他に、グランプリを取った方の手品も!

奉天に想いを馳せて

 現在92 歳。生まれは九州、鹿児島。父が卸業をしていた関係で、5 歳の時に一家で奉天に移り住んだ。奉天は満州第2の都市で、日本人も沢山居住している大きな商業都市だった。奉天市役所、満鉄、奉天製作所等の立派な建物、デパートなどのビルが立ち並ぶ広い道路には、路面電車も走り、皆帽子を被ってさっそうと歩いていた。立派な劇場が市内に5つもあり、長谷川一夫や山田五十鈴の公演もあった。私の家は劇場の前にあったため、芝居はよく観に行った。満州人は穏やかな人が多く、夜でも外を歩く事が出来た。
 満州は色々な面で日本より開けていた。私は日本人の為の幼稚園である春日幼稚園に通い、春日小学校、朝日高等女学校と進学し、日本以上の教育を受けた。奉天医科大学にも日本から大勢の留学生が来ていた。反面、子供の遊ぶ場所は少なかったが、夏は大きなプールで泳ぎ、冬は校庭に氷を張ってスケートをし、スキーにも出掛けた。奉天生活での一番の思い出は女学校時代の修学旅行だ。大連から船で日本に渡り、3 週間かけて日本各地を巡った。移り住んで初めて日本の地を踏んだのだ。その頃の日本は戦時下のため物資が乏しく、どこも全体的に暗い印象を受けた。私達の制服が学習院の制服に似ていたためか、行く先々で「綺麗だ」と褒められ、大阪では「東京から来たのか?」と訊かれた。垢ぬけていたのかもしれない。奈良・京都・大阪・東京・日光へと、一行150 名。一番感動したのは、当時から有名な観光地であった日光だ。修学旅行中の東京で空襲に遭ったが、怖いとは思わなかった。
 女学校卒業後は洋裁学校に進み、いわゆる花嫁修業をした。縁あって職業軍人だった3 歳年上の主人と、21 歳の時に満州で結婚した。主人の上官から「真面目で良い青年」と言われ、父が気に入り結婚したが、本当に真面目な人だった。結婚後すぐに終戦を迎えたが、主人は服務中だった旅順でソ連軍に拉致された。隊ごと拉致されたため「きっと大丈夫」と、そこまで心配せずにいれた。戦後の混乱でも奉天に住み続けていたが、昭和21 年23 歳の時に帰国令が出され、大して荷物も持たずに集団で帰国した。帰国の際に満州人の使用人から「また来てください」との言葉が忘れられなかった。故郷鹿児島で、夫抜きの生活が始まった。周囲の人全員が日本人である安心感は大きく、安心して暮らせた。主人も3 年で抑留から解放され、しばらく鹿児島で過ごした。その後東京目黒に移り住み、主人は中央大学に奉職した。お給料も良く、子供2 人の親子4 人で穏やかな生活がおくれた。府中に移り住んだきっかけは、奉天でお付き合いがあった奉天製作所の主任が府中の出身で「府中は住みやすいから来たら?」と言われ、移り住む。府中は落ち着いていて過ごしやすい町。主人は抑留で身体が弱くなっていたのか、60 歳ちょっとで亡くなった。
 日本での生活が長くなったが、やはり良い思い出ばかりの奉天が懐かしい。数年前にも奉天へ行ったが、あの女学校も、住んでいた建物も残っていた。今は別の施設として使われていたが、懐かしい景色が残されていた。
 今は息子夫婦と孫に囲まれ、幸せな人生に満足している。父は92 歳、母は94 歳まで生きた。私は、このままいくと100 歳まで生きられそう。それでも、奉天に帰りたいかって?もちろん。

0