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インフルエンザの蔓延を知らせる報道を目にします。例年ほとんど罹患者を出さない“ももたろう” でも珍しくは流行ってしまいました。予防の為に休まれる方もおり、いつもの半数程度の日も。何かと心細い日々でした。どんな病気でも、怪しいなと思ったら、早めに受診すると治りが早いです。今は念入りな手洗いうがいを励行中です。

情けは人の為ならず

 私は今で言う大阪市北区に、兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれた。父は小学校の教師で、堅実真面目な人だった。母は自宅で助産院を経営し、毎日のように元気な新生児の泣き声が聞こえてきた。明るく笑顔の絶えない家庭に育ち、私も楽しいことが好き、いちいち悩まない性格。母の口癖は「情けは人の為ならず。孫子の末までお返りがくる。」と、困っている人への支援を惜しまなかった。ある日、浮浪者のような人を自宅に連れてきた。「虫が湧く」と嫌がる私たちを尻目に、その人を綺麗にしてやり、服を分け与えた。別の時には、昨日まで着ていた私の部屋着を誰かにあげてしまい、「また新しいのを買ってあげる」となだめられた。母の教えは次第に兄弟へも浸透していき、私も友達の面倒を見るのが好きになり、先生にもよく褒められた。褒められると褒められるほど頑張れた。負けず嫌いな面もあり、1番が好き。2番ではダメ。記憶力が自慢で、小学校ではクラス一番の成績をあげ、学級委員を6年間務めた。兄も勤勉で、兄弟イチの秀才。性格も良く、私たちの面倒も良く見てくれた。戦争末期だったが、兄は名古屋大学への入学を果たし、地区のリーダーとしても活躍していた。大阪大空襲の日、防空壕に逃げ込んでいた私たちが“警戒警報解除”の知らせを受け、兄を先頭に防空壕を出た。その直後、米戦闘機の機銃掃射を受けた。私の目の前で兄が倒れた。頭部を直径7.7mm の銃弾が貫き、丸い穴が開いていた。即死だった。自宅での葬儀の他、母校の全校生徒が集まった『学校葬』も営まれた。母は「出兵こそしなかったが、お国のために戦死した」と気丈に振舞っていた。「私が身代わりになりたかった」と泣いた、小学校6年生の夏だ。
 私は新制中学を卒業し、その後両親の出身地である広島県に移り住む。高校・大学は広島で勉強し、広島の中学校教員として採用された。結婚は26 歳の時に行きつけの美容院で紹介され、初めての見合いで結婚が決まった。主人は8 歳年上で、国立大島商船高等専門学校の教授をしていた。「優しく、背が高く、学歴もある」ので、一目で気に入った。夫の勤め先である瀬戸内海の島、周坊大島で新婚生活が始まった。高専の官舎を借り、すぐ近くの大島中学校に転勤した。2人の娘にも恵まれ、近所の人が採れたばかりの野菜や魚を届けてくれ、お返しにおかずを差し上げた。主人を慕って生徒もよく遊びに来てくれ、賑やかな生活だった。
 母に似て私も困っている人がいるとなんでも差し出した。娘の服を上げた時は「お母ちゃん、私の赤い服は?」と言われ「新しい服を買ってあげるから」と言って納得してもらった。近所の方からの「ありがとう」の言葉も嬉しかったが、「お母さんにはお世話になった」と、娘に声を掛けてくれるのが一番嬉しかった。官舎の近くに家を建てたのは40 歳位の時。娘たちの大学受験が迫り「まず、わが子を育てないと」と、43 歳の時にスパッと退職し、娘たちに寄り添い見守った。娘達は私に倣って二人とも中学校の教員になり、やはり人助けが好きな豊かな人格に育った。娘達が独立して行った後は、今で言うボランティアをし、独学で身に付けた編み物や縫物、繕い物等、出来ることは何でもした。近所の人から重宝され、世話好きな性格もあって、私の家には近所の人が絶えなかった。周坊大島での生活は楽しかった。海に近く、広い庭には藤棚や池もある。斜面にはみかん畑が広がり、野菜や魚がおいしくて暖かい。定年を迎えた主人とは、食べ歩きや旅行を楽しみ、とても幸せだった。主人は80 歳位の頃にC 型肝炎に罹り入院した。注射針の回し打ちで感染したらしい。お葬式は「こんなに人がいっぱいの葬式は見たことない」と言われるほど多くの参列者があった。一人になってからの生活も友人達と楽しく暮らしていたが、振り込め詐欺に合いかけたのをきっかけに、2年前81 歳の時に娘のマンションへ移り住んだ。富士山や大国魂神社が大きな窓から見える良いところだ。今はだれも住んでいない家が周坊大島にある。池にいた錦鯉は、近所の方に貰ってもらったが、藤棚はどうなったか。お墓は――。
 私は昔からメモ魔で、出会った人の名前や年齢を訊くとメモし、殆どの島民の名前や家族構成を覚えている。今も昼食のお弁当の内容を毎日箸袋にメモして娘に伝えている。娘は昼食と同じ夕食を作らないよう、私が帰るのを待って夕食を作ってくれている。“デイサービス ももたろう” は週3回、丁度1年前から通っている。少しの時間を見つけては、歌ったり踊ったりしている。この前は絵手紙で『水仙』を描いた。早く踊りたいのでササっと描いたのに、先生が褒めて下さった。歌って踊って楽しい毎日は皆さんのおかげ、ありがとう。
 私のモットーは、『元気よく生活する』こと。栄養士の資格もあるため食事のバランスには気を付け、健康には『笑いが一番』と、よく笑い、よく歌う。怪我をしないように注意して運動もしている。その甲斐あってか、出産以外で入院した事はない。そして『落ち込んでいる人は引き上げて、笑顔になるまで手助けする』のが、母から学んだ“孫子の代まで” 幸せに過ごせる秘訣。心豊かな家系に育ち、幸せすぎて困るほど。これからも周りの人と和やかに過し、幸せな人生を送っていきたい。