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ようやくインフルエンザの流行も落ち着き、2月の下旬になって罹られた方々も、またお元気に揃われました。「早くももたろうに来たかったわ。ここに来るとホッとするの」「人数が少なくて寂しかったわ」と、再会を大変喜ばれていました。この間に一度も休まず来所された方は13名。全体の3割でした。健康こそが財産です。

家族の、かたち

 「お父さんいる?」二人の娘が我が家に来ると、決まって発する言葉だ。娘も早50 代なのに「お父さん、お父さん」と、子煩悩で優しい主人を慕っている。私は熊本県天草市で生まれ、四人兄弟の末っ子として大切に育てられた。実家は大きな農家で、収穫期には何人も人を雇っていた。
 高校2 年生の時、一回り大きい姉に呼ばれて上京。東京の高校へ転入し、短大も姉の家から通った。姉の夫である義兄は、新宿で電気店を手広く営んでいた。その職場に、大学生のアルバイトとして働いていたのが主人だ。北海道出身の主人は父親を早くに亡くし、お姉さんと二人きりで、支え合いながら生活していた。お姉さんは池袋の西武デパートに勤め、主人を大学卒業まで支えてくれた。義兄から気に入られていた主人と一緒に、私もお店の手伝いをよくしていた。新品の下取りとして買い取ったテレビは、ブラウン管を交換し『中古テレビ』として販売していたが、これが面白いように売れた。三鷹に新店舗を出す計画が上がり、主人が抜擢された。同時期に「誠実・真面目で優しい人だから」と、義兄から結婚を勧められ、何の不安も無く結婚した。結婚後暫くして、西武が府中市緑町に土地を売り出した。グループ企業のつてもあってか、そこを義姉が買い、家を建てた。義姉、主人と私、3人の暮らしが始まった。当時の緑町はピーナツ畑が広がり、風が吹くと砂埃で隣の家が見えなくなるほどだった。日中も雨戸を閉めて生活し、新宿との落差に泣いた。3人での生活自体は特に諍いも無かった。私自身のほほんとして、「なんとかなるさ」と、何事も気にしない性格が良かったのかもしれない。一度だけ主人を大変怒らせたのは「あなたのお姉さんは分からずやね。どんな育ち方をしたの?」と尋ねた時だけだ。
 年子で二人の娘ができた。娘が府中第2小学校に入学すると、PTA の役員を、中学校・高校では会長も引き受けた。主人から「学校と結婚しろ!」と言われるほど、学校の事や人の世話にのめり込んだ。元から見て見ぬふりができない性格で、大の負けず嫌い。一番でなくては嫌で、他人の後について行くのは大嫌いだった。また、小学生からバレーボールを始め、中学生時代では県大会にも出た。ママさんバレーでもセッターとして活躍し、やりたいことは何でもした。
 娘達も大きくなり「一国一城を」と言うことで、主人の友人から勧められた千葉県八街市にマイホームを購入した。ここも、ピーナツの産地で知られる土地だ。上の娘は東京で進学し、これまで通り緑町で義姉との生活を選んだ。主人は仕事で家を空けがちで、朝早く夜遅い。そのため、昼間は私一人で自由な生活をした。友達が遊びに来ると、冷蔵庫の中を覗いて何でも持って帰らせた。主人が「昨日買って帰った○○が食べたい」と言われても、すでに友達にあげてしまっていた事もあった。そんな時は「お前は人が良すぎで、苦労知らずだ!」と言われる。実は結婚後も、熊本の母から私の口座に“東京での生活費”が振り込まれていた。「俺の給料でこの生活はできない」と、薄々気づいていたようだが、上手くごまかしていた。送金の事実を知った主人は母に止めるように伝え、併せて私も怒られた。育ちも金銭感覚も違う私達が上手くやって来られたのは、きっとお互いに真逆だったからだろう。それでも、主人は私と結婚しなければ、もっと大きくなれただろうと思う。今まで捨てられずに来られたのが不思議なぐらいだ。
 数年前に、主人と府中に戻ってきた。ビルが立ち並び、見違えるような街になった。義姉と長女が暮らす家からも、次女が暮らす家からも近いマンションに住み、“デイサービスももたろう” には週2回通っている。ここは『自分を殺さなくていい』場所。なんでも言って、なんでもやってしまう私に、主人は毎回「今日はどうだった?迷惑かけていないか?」と問い、「大丈夫ですよ」と答えている。83 歳で新しい友人もでき、ここに通えることが幸せ。今は主人と二人住まいだが、二人の娘達が入れ換わり来てくれ、身の回りの心配をしてくれる。“ももたろう” に来るようになったのも、娘が決めてくれたおかげ。今でもこうして“苦労知らず” でいられるのは、家族の絆の強さからだろう。良い人たちに出会え、とても幸せ。

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