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新聞やテレビ等で “認知症” や “アルツハイマー” という言葉を毎日目にします。先日、新宿武蔵野館で映画『八重子のハミング』を観てきました。実話を基に、夫は「4 度の癌手術」、妻は「若年性アルツハイマー」の12 年間に及ぶ介護と家族の物語です。本も出ていますので、どちらか是非見てください。お勧めです。

紡ぎ、織り、仕立て、

 生まれは、山口県徳山市新地。現在は合併して周南市になった。安倍首相の実家がすぐ近くにあった。徳山といえば重工業が盛んで、徳山セメント、徳山曹達、キリンビール等の大きな工場があった。海に近いので魚が美味しいし、みかん・干し柿が有名な町だ。子供の頃は徳山曹達に開放プールがあり、よく泳ぎに行った。戦争が始まると、徳山曹達は軍需工場として稼働するようになった。女学校の2 年間、徳山曹達へ学徒動員され、毎日8 時間工場内にある線路のポイント切り替えをした。帰りに工場の人から乾燥芋を貰うのが楽しみだった。女学校時代は、学徒動員で殆ど勉強はしなかった、と言うより出来ない時代だった。勉強はしなかったが終戦を前に卒業証書を貰い、卒業後は徳山機械に就職した。洋服を作るのが好きだったこともあり、仕事をしながら夜間の洋裁学校に2 年間通った。
 ある日、知らない男性から会社に電話がかかってきた。「公園で会いましょう」との誘いを受け、迷いながらも行ってみた。そこに居たのはハンサムな壮年の男性で、私は知らなかったが近所に住んでいる人だった。その公園で鶴の置物を買ってもらい、60 年以上たった今も家に飾ってある。この出会いがきっかけで1 年後に結婚。主人は10 歳年上で、海軍を出てから鉄鋼会社で働く人だった。ハンサムなので母が心配し「浮気でもされたら困る」と反対されたが、反対を押し切っての結婚。当時私は24 歳で、42kg と小柄だったため可愛く見えたのだろう。子供は息子と娘の二人をもうけ、子供が小学校高学年になった頃に、主人の転勤に伴い府中に越してきた。私が家庭を支え、主人への口答えなどは一切しなかった。出社前の身支度も、靴下を履かせ、ベルトを締めるところからすべて私が行っていた。
 自分の着る洋服は全て手作りで、近所の人から「洋裁を教えて」と頼まれ、自宅の2 階全部を教室にした。ロックミシン3 台、ミシン3 台を置き、生徒も段々と増えていき、家庭も仕事も順調だった。息子も大学を卒業してすぐに設計事務所を立ち上げ、経営者として忙しくしていた。寝不足からか「頭痛がする」とはよく言っていたが、仕事はとても熱心に取り組んでいた。無理が祟ったのか、息子は31 歳の時に脳出血で倒れ、そのまま帰らなかった。2 人の子供と、テニス仲間だった同い年のお嫁さんを残して―。事務所の息子が使っていた引き出しからは、バファリンの空容器がたくさん出てきた。私は泣き崩れたが、お嫁さんは涙も見せず気丈に振舞っていた。主人が定年を迎えた頃だったこともあり、生徒を増やすべく洋裁教室を計4 カ所で教えるようになった。助手のお嫁さんを車に乗せ、教室を飛び回る日々。気付けば私も、バファリンに頼る生活になっていた。お嫁さんは几帳面で料理が上手く、優しい人。息子との結婚当初から同居していたが、いさかいは全くなかった。私の主人が96 歳で亡くなるまで、2 年間ほど自宅で寝たきりの時期があった。おむつ替えから何から全部の介護をお嫁さんが代わりにやってくれ、病気の時はベッドの横に布団を敷き、夜中も世話をしてくれたほどだ。
 若い頃から、免許を持たない主人を助手席に乗せ、いろは坂や高速を飛ばして運転していたものだが、5 年前の81 歳で運転を止めた。同時期に夫の介護のため、まだ続けたかったが仕事も辞めた。減量のために70 代半ばから水泳教室にも通っていたが、こちらも2 年前に止め、デイサービスへ通い始めた。今も自宅には溢れるほど洋服があり、“ももたろう” に通う日はお嫁さんが“今日の一着”を選んでくれる。同じ服を着て行ったことは無く、皆さまから「今日も素敵ですね!」と言ってもらえるのが嬉しい。現在86 歳。洋服が窮屈になってきたので、少しは減量したいと思っている。おやつを替えたりしてみたが、なかなか難しい。心残りは、家族で旅行に行った思い出が無いこと。お金に不自由していなかったのに、仕事が忙しく、主人も大型の帆船模型を作る事に没頭していたため、家族で旅行に出掛けたことが無かったのだ。今からでも行ってみたいとは思うが、“ももたろう” を休まなければならないと思うと躊躇してしまう。これからも優しいお嫁さんと仲良く過ごせ、大好きな“ももたろう” に通えればそれが一番の幸せだと思う。今までの人生を振り返ると、楽しい人生だった。一番楽しかった時期?今が、一番楽しいわ。

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