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3月に1~3月生まれの方々の誕生日会を夜の“デイサービスももたろう” で催しました。通う曜日が違えば、会ったことも話したことのない方同士の誕生日会。それでも大変盛り上がりました。今度は4~6月生まれの方々の誕生日会を6月29日(木)夜6時から行います。スタッフも一緒に祝います。楽しみにしていてください。

七転び八起き

 私は山梨県忍野村に3 人の兄を持つ、4 人兄弟の長女として生まれた。村の中心部に家があり、大きな畑もある裕福な家庭だった。母方の実家からは5期も村長を輩出し、他の親戚も何人か村会議員を務める「お大臣」だった。母は頑固で芯の強い人だったが、対照的に父は遊び人だった。支那へ出兵した際にも現地に“お妾さん” を作ったほどで、私がまだ幼児の頃にお妾さんと家を出て行った。だから父との思い出は無く、母と3 人の兄との苦しい思い出だけが残っている。母は4人の子供を養う為に行商へ行き、兄が畑仕事を一手に引き受けた。私も幼少の時から炊事や洗濯を兄に代わってするようになった。悪い事は続き、一番上の兄は知り合いに背中を蹴られた際、脊髄を痛めて半身不随になってしまった。2 番目の兄が看病を引き受け、私が家事や食事の用意をしないでいると兄に殴られたものだ。母は医療費を稼ぐ為に、昼夜を問わず今まで以上懸命に働いた。幸い親戚が皆裕福だった為に卵や野菜を分けてくれ、それでなんとか生き延びることができた。金銭的にも苦労が絶えなかったが、母は土地や畑を手放さなかった。私も家の家事だけではなく、小学生の時は近所の子のお守や食事の支度をして、少しばかりのお金をもらってきた。中学校に入ると、みかんの収穫や田植えの手伝いにも行った。腰が痛くて眠れなかった思い出がある。学校には行っていたが、勉強はあまりせず、バレーボールをするのが楽しみだった。
 学校を卒業すると、田植えや稲刈りの繁忙期に小田原へ行き、住み込みで仕事をするようになった。友達と仕事をし、休みの日には映画を観に行ったり、スキーに行ったりと楽しかった。結婚は30 歳前後の見合いで決まった。小田原へ仕事に行っていた時に、親戚の人が仲介してくれた人だ。夫となる人は1 歳年上で府中出身だったため、結婚して府中にやってきた。その嫁ぎ先も農家で、大姑や舅・姑や小姑も2人いる大家族。直ぐに娘が出来たが、子育ては舅・姑に託し、私は多摩川土手の近くのコンクリート会社に就職した。毎日自転車で通い、車の誘導など屋外での仕事をこなした。大家族だったので、朝5 時から食事の支度をし、洗濯をしてからの出勤で休む暇もなかった。定年が迫る頃、クレーン車に左足を踏まれ、指を2 本を失った。入院せずに自宅で治療したが、娘が夜中も氷を持って来ては、化膿しないように冷やしてくれた。父親の顔を初めて見たのは、私が40 歳ぐらいの頃だろうか。養老院から運ばれた病院で、冷たくなった後だった。兄は「嫌いだから」と顔を見ることもしなかったが、立派な葬儀を挙げた。実は娘時代にも何度か「会いたい」と会いに来ていたが、私は会うのが怖くて逃げ回っていた。「家賃が払えないから」と、母に金の無心をしにも来ていたそうだが、気丈な母は払っていないだろう。
 夫は40 年間、私も30 年間会社を勤め上げ、二人とも年金を貰っている。また、賃貸用のアパートや店舗を計4 軒所有しているため、今はお金に不自由していない。退職後もアパートの管理や、東郷寺の草むしりも70 歳から去年まで10 年間続けた。去年までは車も運転していたが、娘に止められて辞めた。今は、娘夫婦と孫2人と私達夫婦の6 人家族。主人は毎日畑に行って野菜を作り、娘が料理してくれて皆で食べている。私の一番の楽しみは、暇になってから覚えたパチンコへ行くこと。毎週日曜日になると娘がタクシーを呼んでくれ、一人で府中のパチンコ店で遊び、タクシーで帰る。娘はいつも財布に5 万円入れてくれ、倍にして帰った時は嬉しかった。損をする事も多いが、自分のお金でやっているので誰も文句を言わない。
 兄たち3人は天国に行ってしまい、私一人だけが残った。皆さんから「一人残ったら長生きするよ」と言われるので、兄たちの分も元気に長生きしたい。半身不随になった一番上の兄はというと、35 歳で治り、豆腐屋を経て結婚式場の経営まで手を広げた。3 人の子宝にも恵まれ、幸せな人生を過ごしたようだ。私はまだ80 歳。毎年山梨の友達が「さくらんぼ狩り」に呼んでくれ、親戚とも「桃狩り」に出掛けるのが楽しみ。“ももたろう” には、週2日通っている。歌を歌ったり、皆さんと談笑したりして大変楽しい。ようやく手に入れた、ゆっくりとしたこの時間を、大切にして過ごしていきたい。

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