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今年度も3校の中学生が職場体験に来ます。すでに八中の生徒が職場体験し、9 月には浅間中、10 月には三中です。皆さまにとっても「息子や娘の中学時代を想い出すわ」「とっても可愛い」と、楽しみにされています。午後は散歩やトランプを一緒にしてもらいますが、多くの子が一日で全員の名前を覚えるのには、何時も驚かされます。

父の言葉、兄の面影

 私は岩手県に5 人兄弟の3 女として産まれ、つい5 年前まで岩手に居た。岩手県は歴代の総理大臣を5人も輩出した地であり、勉強熱心な人が多いのかもしれない。私の父は、26歳の若さで小学校の校長先生になった、やさしい人。母も教師で、いつも背広とスカートを穿いて学校へ出かけていった。共働きの家庭だった為、お手伝いさんが2~3人いて、食事の支度から何から色々と世話をしてくれた。その上、親戚ではないおばあさんも一緒に生活し、賑やかな家庭だった。体格の良い兄弟に囲まれていたが、私は「今にも死にそう」なほど小さく、小柄だった。それでも父は「この子は小さいけれど、体は丈夫です」と、人に紹介する時には必ず誉め言葉を添えてくれた。
 大好きだった一番上の兄は、幼くか弱い私に“生きるために必要なこと” を教えてくれた。山に行けば食べ物の採り方を、川に行けば水泳を教えてくれた。勉強もできため級長を務め、バイオリンやハーモニカの演奏もできた。ハーモニカで外国の曲を演奏していると、近所の子供達が集まってきたっけ。そんな兄が高等師範学校の学生だった時、召集されて出兵していった。私が小学校低学年の頃だ。それ以来兄には会っていない。ニューギニア戦線に参加し、亡くなった。兄がどのような最期を迎えたのかはわからないが、酷い飢餓や病気に苦しみながら、自決用の手りゅう弾2発を渡されたという。一番上の姉も優等生で何でも出来、色の白い綺麗な人だった。通っていた女学校で結核が流行り、8人が亡くなった。姉はそのうちの一人だ。大好きな人を亡くし、どれだけ泣いただろう。今になっても兄の事を想い出しては、涙が止まらなくなる。兄より立派な人に出会った事はない。
 岩谷堂高等女学校を卒業後は、両親にならって教育の道へ進むべく保母養成所へ通い、幼稚園の先生になった。主人となった人は新潟県出身で、水沢市役所に勤めていた人。姑が見染めてくれ、結婚することになった。子供ができたのを切掛けに、幼稚園の仕事は辞めた。小さい頃から両親不在で寂しい思いをしていたため、自分の子は自分で育てたかった。ぼんやりと過ごす日は無く、メリハリのある生活をさせた。そのおかげで息子と娘は二人とも勉強で一等賞。息子は生徒会長になり活躍し、娘は後に薬剤師になった。
 主人は水沢市役所の都市計画課長として、戦後のどさくさを仕事一筋で過ごした。新潟県出身で気が強く、地元のしがらみが無いため、ばんばん仕事をしていた。しかし、子供たちが大学生の時、主人は仕事先の市役所で急に倒れた。脳溢血だったそうで、その日の夜に息を引き取った。享年50歳、私もまだ48歳だった。あまりにも急のことなので、その時のことを想い出そうとしても想い出せない。病院に知り合いや知人が続々と来てくれた事、黒い喪服を着せられてお葬式で頭を下げていた事は想い出せるが、涙で滲む空白の日々だ。生活面は幸いなことに各種支給があったので、さほど困ることはなかった。主人が亡くなって数年が経ち、幼稚園の知り合いから仕事に来てほしいと頼まれ、社会復帰した。時は幼児教育がもてはやされた時代。新しい園を作ると言われ、立ち上げの手伝いにも行った。泣いている暇も無く、まして子供達の前で泣いてはいれない。子供達にはだいぶ救われたのだろう。仕事をしながら、趣味で習字や絵画を習った。特に油絵が好きで、大きな絵を何枚も描いた。平山郁夫の作品に惚れ込み、全国の個展をまわったりもした。“ももたろう” にも一枚飾ってもらっている。
 80歳の時、息子から「一緒に住まないか?」と言われ、5年前に府中へ越してきた。あの言葉は嬉しかった。1階の2部屋を貰い、仏壇の前に布団を敷き、寝て起きての生活をしていた。そんな時にデイサービスの利用を勧められたのが“ももたろう” へ行く切掛けだった。今は週3日通っていて、友達と話をするのが楽しい。孫とも一緒に生活しており、時折父が私を紹介する時の言葉を想い出す。子供を育てる時、孫を育てる時、その子の良いところを、他の方を通して褒める大切さを今、感じている。現在85歳、皆さまから「少女のようだ」と言われている。私は、“小さいけれど、体は丈夫です”。

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