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マスコミは毎日のように水分不足で起きる体調不良の注意喚起をしています。熱中症、そして高齢者の肺炎も怖いもの。水分不足にならないよう、“ももたろう” ではバイタルチェック後のお茶から始まり、計5回水分を提供しています。総量1.2L から1.5L に及ぶほど。一人だとなかなか飲まれませんが、皆さまと一緒だとお茶会感覚で楽しく飲めます。

誰のために働き、誰のために生きるのか

 生まれは神奈川県の三浦半島。8人兄弟の7番目で大家族だったが、現在は2人しか残っていない。父親は駐在所勤務のお巡りさんだったため、神奈川県内の駐在所を毎年のように異動した。駐在所へは家族全員で移り住んでいたため、私も小学生時代の6年間で5校も変わった。小学校1年生の時は、1学期だけ通って転校し、それ以降も転校を繰り返した。だからなかなか友達が出来なかった。相模原の青野原小学校は長めの2年間通えたため、そこでの友達とは今でも交流がある。中学校は転校しないで卒業できたが、その当時から転勤の無い人と結婚したいと思っていた。
 母が地主の娘だったため、婿養子として家に入った父は、頭が良く、勤勉で芯の強い人だった。戦争中は空襲の標的にならないよう、夜になると家々から明かりが漏れていないか、夜遅くまで見回っていた。私は中学校卒業後、女学校へ行く代わりに『畜産試験場』で主に蚕の勉強をする研修生となり、2年間の寮生活では転勤を気にせずに勉強ができた。昔からお蚕さんが好きで近所から2~3匹貰ってきては、虫嫌いの父に内緒で飼っていた。勉強はとても楽しかったが、ここの寮での思い出は良くなかった。同じ寮生にお菓子屋の娘がいて、週末家に帰るたびにお菓子をいっぱい持って来て皆に配っていた。他の寮生もオニギリやら何やら持ち寄るようになったが、私には持って行けるようなお土産が何も無かった。「おめーは、なにももってこねー」と、いじめられた。
 研修生修了後に服飾学校へ進み、洋裁を学んだ。学校卒業後、国鉄に入社。働き盛りの男性は戦争で数が減っていたため、国鉄と言えば男性の職場のようだが、女性も多く勤めていた。私は切符を売ったり、改札で切符を切ったりした。結婚したのは22歳の時。主人は同じ国鉄に勤める、同い年の人だった。主人の家に遊びに行った時、お義母さんから「お嫁に来て欲しい」と懇願された。病気がちの人だったから、働き手が欲しかったのかもしれない。しかし、その家には年下の小姑が4人もいて、何かと「早くしなさい!」とせっつかれたのを覚えている。この結婚は長く続かなかった。主人は給料全部飲み代に使ってしまうような人で、家にはお金を入れてくれなかった。耐えかねて息子2人が小学校に上がった時に離婚。離婚後は、編み物の先生をして生計を立てた。この当時、機械編みが流行っていて生徒さんがたくさんいたので、家とは別に教室も持った。習字にも心得があり、習字も教えていた。子供が大きくなると、今度は不動産会社に就職。いわゆる『宅建』の資格があると給料も良くなるので、60代になってから勉強して資格を取った。仕事は順調で次々と契約が取れ、独立まで果たしたほど。息子達も大学を卒業し、二人とも高校の教師になった。
 “ももたろう” には週1日通っている。以前習字をしていたから『習字の日』と思ったが、息子から「今までやっていた事より、オカリナを聴いたり、フラダンスを見たり、ドッグセラピーや体操をしたほうが良いんじゃない」との助言で、毎週金曜日に通っている。話し相手も多く、デイに行くのが楽しい。デイに通わない日は、息子と借りている畑の草取りをして過ごすのが楽しみ。でも、素人なのでなかなか収穫には繋がらない。他には息子と別荘へ行ったり、最近では息子が買ったヨットに乗りに、月に一度三浦の海へも行っている。家では縫物や編み物もしていて、機械編みで作ったセーターやチョッキを孫にプレゼントしたり。好きな事をして生きてきて、今も好きな事をして老後を大いに楽しんでいる。デイに着て行く服も、全部私の手作り。息子も手先が器用で、バイオリンを作っていた事もあるほど。こんなに優しい息子と一緒に居られて大変幸せ。8月で90歳。耳が少し遠いけれど、まだまだ元気。
 でも、本当は小説家になりたかった。転校する先々で作文は一番だったのだが、父から「ダメだ、女は職を持たないで家に入った方が良い」と諭され、諦めた。今振り返ると、手に職があってこその人生だった。仕事をするのは楽しい事。今着ているスーツも、姉の着物をほどいて自分で作ったものだ。「何でも教えますから訊いて下さい。私にできる事は何でもしますよ。」が、私の口癖。まだまだ、仕事があるなら働いていたい。

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