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今年は長い梅雨と暑い日が続き、散歩に出られない日々…。その為室内で出来る「3分間起立」と「足踏み運動」を、午後の時間に出来るだけ多くの方々にして頂きました。3分間起立するのは、なかなかきつく「3分間って長いですね」と言われていましたが、次第にご自分からされるようになりました。今後は1年を通して実施していく予定です。

出会いもまた運命

 生まれも育ちも北海道。父が転勤族のため道内を転々としたが、函館よりバスで1 時間の『尻岸内』で幼少期を過ごす。海沿いの小さな集落だが、ここは大変な田舎だった。バスは1 日2 本だけだったので、バスが珍しく「バスが来たよー」と、近所の子達がバスの後を追いかけては排気ガスの臭いを嗅いでいた。排気ガスの香りで都会の生活に思いを馳せていたのだ――。私は現在89 歳。ともに小学校の教師だった両親のもと、7 人兄弟の3 番目。兄と姉はおじさんの家に下宿して中学・高校へ通い、私から下の兄弟は両親の元で育てられた。母は赤ちゃんが生まれると家庭に入り、父は早くから校長先生になっていた。育ち盛りの7 人の子供達に食事を食べさせるのは大変だったようだ。買いたくても品物が無く、ジャガイモ・玉ネギ・人参の入ったカレーライスが大のごちそうだった。私が小学生の頃に戦争が始まった。酷い喘息を持つ父の代わりに、一家を代表して私が出征する家へ行き、旗を持って兵隊さんを見送った。兵隊さんのお母さんからは温かい労いの言葉を貰ったが、今思うと母親を前に平気な顔で旗を振っていた事に、胸が痛む。小学校6 年生の時、勤労奉仕のためクラス全員で函館の大きなパン工場へ通った。「お国のため」を合言葉に、兵隊さんに送るパンを箱に詰める作業をした。友達は監督の目を盗んで食べたそうだが、一般にパンは売っていないため、買う事も食べる事も出来ない御馳走だった。
 女学校に進学し、英語を習うことを楽しみにしていたが、英語の先生から「英語の授業はしません、敵国語ですから」と言われ、以後勉強する事も無かった。終戦を迎え、女学校卒業後は地域の信用金庫に勤めた。お札を数えるのが上手と言われ、毎日が楽しく夢があった。父のツテでセメント会社の立ち上げを手伝うことになり、その会社で会計の仕事もした。そして26 歳の時、国家公務員だった主人と結婚。主人のお父さんも学校の先生で、親同志が親しくしていたため、父親の「心配しなくても大丈夫だよ」という言葉に従って結婚した。知らない人だったが、当時はそれも当たり前だった。
 主人は10 歳年上の優しい人。国家公務員として北海道の開拓を仕事にしていた。大勢の若い衆を引き連れて、稚内や十勝の開拓村へ行き、道路などの都市基盤を作る仕事をしていた。夏場は開発建設部の事務所に詰め、雪の降る冬になると家に戻ってきた。この生活はずっと続き、息子と娘の二人を育てるのは、ほとんど私一人の仕事だった。緊張の毎日で、子供達にも「我慢してね」と、口癖のように言っていた。主人が若い衆を連れて久しぶりに帰ってきた日、小学1 年生になる娘が慣れない手つきでカキフライを作り、うれしそうに振舞っている光景を思い出す。
 主人は55 歳で亡くなった。辛く、思い出したくないから、ほとんどその話はしなかった。今でこそ子供たちと話をする事もあるが、当時は大変だった。その後二人の子供達は大学進学のため上京し、それ以来私は函館で30 年間、一人暮らしを続けた。4 年前に娘が住む府中へ越してきた。府中でもマンションに一人で暮らしていたが、段々と食べるのも面倒になり、体重はだいぶ落ちてしまった。ヘルパーさんにもお世話になり、“デイサービスももたろう” へ通うようになって2か月半。所長さんに「夜は面倒で食べていない」と言うと「子孝行だと思って毎日夕食に弁当を食べて下さいね」と怒られた。夕食も食べるようになり、1か月で3 キロ体重が増えた。毎日が楽しく思え、幸せを感じている。娘は仕事の帰りに寄ってくれ、息子も毎日「元気にしているか?」と電話を掛けてくれる。人生の長い時間を一人で過ごす事が“運命” で決まっていると思っていたが、今では娘や息子、仲の良い人達に囲まれ、大変楽しく生活している。たまに北海道へ帰りたくもなるが、府中も緑が多く、一年中緑を見られるのは嬉しいし、幸せ。

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