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世の中「コロナ、コロナ」で、も デイサービスもたろうでも1 日5 回の室内消毒。手洗いは、トイレに入られたら必ず石鹸で丁寧に洗っていただいています。勿論、マスクは食事やおやつ以外、必ず付けていただいています。日光浴も機会を見つけては屋上にて10 分位していただいています。「気持ちいいわね」「幸せ!」という声が出ます。

厳しさは、優しさを育み

 生まれは、北区東十条。兄1人、姉1人、弟1人の4人兄弟の次女。父は酒販組合の支部長職に専念していたため、自宅併設の酒店は専ら母と子供達で店番し、配達はしなかった。東十条駅を下りたあたりに地所を持ち、アパートや店舗を貸していたためお金に不自由はしなかった。戦争が始まると、私は群馬県の渋川に学童疎開した。渋川にあるいくつかの寺に分かれての生活。朝はお経をあげ、少し離れた丘の上の寺へ勉強を習いに通った。この小さなお寺に、子供数十人が共同生活したが、食べ物は普通に食べさせてくれ、特に不自由はなかった。戦争が激しくなると3つ下の弟も同じ寺に疎開してきた。低学年の子達は相手をする大人も居らず、泣き続けていた。戦争末期に疎開先で盲腸を患い、町の病院に入院した。退院した翌々日だったと思う。外にいた私たちの方に、一機の戦闘機が高度を落としながら迫ってきた。一緒にいた子達は素早く防空壕に避難したが、手術痕が痛む私は素早く走る事ができず、一人だけ取り残されてしまった。戦闘機がすぐ背後に迫るのを感じ、死を悟った。すれ違いざまにパイロットの横顔が見えた。子供だったから撃たれずに済んだのかもしれない。後で、近所の牛が機銃掃射によって殺されたと知った。
 東十条に戻ったのは戦後しばらく経ってから。幸い東京に残った家族は無事で、生活基盤が整うと他の友達より一足早く渋川へ迎えに来てくれた。列車に揺られ東十条の駅に着き、駅を下りる。そこにあったはずの、見慣れた風景の何もかもが無くなっていた。東京大空襲で焼け野原となり、赤羽や王子まで見通せる平らな土地が広がる。家は、バラックのような簡単な建物を付き合いのあった大工さんに建ててもらったそうで、空地には簡素な畑が点在していた。家に入ると、姉の革靴が片方だけ残されていた。父から贈られた革靴は、姉が大空襲から逃げる際に片方が脱げ、その片方だけが残ったそうだ。一家6 人、戦後の生活が始まった。酒屋のコネで酒は手に入り、その酒と物々交換で闇米や食べ物を手に入れた。父の実家は新潟で、親戚が頻繁に闇米を持って来てくれた。その親戚は会社員だが、生活のためにお金が必要だったのだろう。肌着に米を忍ばせ、何度も東京へ通っていた。バラックを壊し、建て替えが進むにつれ、町は次第に復興していった。しばらくして女学校に入学、卒業した時は学制改革で高等学校になっていたが、卒業までの4年間、バレーボールに励み一番楽しい時代だった。夏休みは学校の推薦で製菓業のアルバイトをした。その中に大学生の男性もおり「背が高く、真面目そうで、なんとなく落ち着いた人」との印象を持っていた。その後は会うことも無かったが、何の縁か文通はこの後も続いた。小さい頃から料理が好きで、親が家庭科の先生に相談していたらしく、卒業後は駒込にある香川綾の『女子栄養短期大学』に2年間通った。食品学・栄養学などなど覚えることがたくさんあり、大変だった。楽しみは帝国ホテルの料理長が来て、フランス料理を教わる事。実習は病院・保健所・学校等の現場へ行き、すごく厳しかった。特に病院実習は杉並の荻窪病院で、早朝から朝食の準備もあるため、とても家からは通えなかった。地方出身の友達のアパートに泊めてもらい、5時半に起きて通った。卒業後も勤めはせず、『大妻和裁学校』に1 年通い、その後は機械編みの学校『萩原編物学校』に1年間通い、いわゆる花嫁修業をした。卒業後だったか、姉が勝手に『ミス・キスミー』に応募し、合格。デパートやお店で口紅を勧める仕事に就いた。ただ、「この色の口紅が似合うのでは?」という仕事には先が見えず、2年で辞めた。
 結婚は、マルハニチロの前身である日魯漁業に勤める人と、学生時代からの文通が紡いだ縁で。結婚後、主人の実家があった府中に越し、2人の子供をもうけた。セーターなどは、全部私が編んだ。きかん坊だった長男に付きっ切りだったからか、小学校3年生頃の娘に「弟ばかり可愛がって!」と何度も言われたが「お嫁に行って何も出来ないと困るから、今のうちに厳しくしているのよ」と言って、厳しくしつけた。今では愛媛県の松山で、建築業の主人の片腕として仕事をバリバリこなしている。今はコロナの影響で来られないが、今年の1月までは毎月、愛犬を連れて一週間泊ってくれていた。長男は転勤も多いが、今はさいたま市に住んでいて、ちょくちょく顔を出してくれる。主人に似て背が高く、私に似て料理が上手。私はというと、以前自宅の螺旋階段から落ち、腰を打って骨折してしまった。まだ痛いのが辛いが、“ももたろう” に通っていると痛みを忘れる。皆さんと会話をすると楽しいし、ぼけないためにも頑張って行くつもり。
 主人は90歳、私は86歳になる。戦後を生き抜いた人は芯が強い。今は何でもある豊かな時代だが「本当にこれで大丈夫なのかな」と思う。今の若い人はどうか。他人を気遣わず、その場限り、自分だけがよければいい、そんな社会になっていないか。困っている人がいたら、誰かがそっと手を差し伸べる、そんな社会に戻れば、と願っている。