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今年も梅雨に入り、室内で過ごす時間が多い時期になりました。午後の活動で皆さま熱心に取り組まれているのが『点繋ぎ絵』です。1~ 330 ぐらいまでの数字を順に線で繋ぐと絵が完成するのですが、本当に熱心に黙々と取り組まれます。途中で水分補給や体操を取り入れますが、早く完成させたい一心で、また直ぐ課題に向かわれます。

新米看護師は58 歳(後編)

 学習塾では子供たちから「おばさん、勉強分かる?」と、自分たちが先輩だと思って、優しく声を掛けてくれた。塾で国語・英語・数学を半年間習い、看護学校は通学圏内の6校全部受験した。選考は、筆記試験・論文・面接で行われ、筆記試験と論文は問題なくパスしたが、面接で面接官から「どう考えても勉強について行かれないと思う」と言われ、相次いで5校落とされた。最後に残った1 校の面接は、「これでだめなら、看護の仕事を諦めよう」と背水の陣で挑み、熱を入れてしっかりと話をした。ここでも「無理だ」と同じように言われたが、「ついて行けなければいつでも辞めます」と言うと「わかりました」と。数日経っても合否の連絡が無いため、看護の道は諦めて参考書も全て処分した。賄さんにでもなろうかと考えていた矢先、予定からだいぶ遅れて合格の知らせを受け取った。56歳にして晴れて世田谷の看護学校へ入学。同期は若い人ばかりで、若さを生かし試験は一夜漬けで乗り切る人が殆どだった。私は記憶力も体力も追い付かず、チラシの裏にびっしりと書いて覚えたが、追試ばかり。いつも追試に追われ、皆から『追試の女王』と呼ばれていた。追試は別途千円掛かり、追試代を稼ぐために働いているようだった。午前中に2時間ぐらい仕事をして、午後から学校で勉強する生活を続けること2年。各科の先生以外にも、英語や花道の先生からも指導を受けた。講師陣に恵まれ、何とか食らいつき58歳で卒業した。同期に2人だけだった皆勤賞も貰った。

 准看護師の試験は東京と岩手の二会場で受けた。2月の岩手はやっとバスが動くという大雪の中、看護学校の仲間4~5人と前乗りして大部屋に泊まり、一睡もせずに最後の追い込みをした。幸い両方の試験に合格し、准看護師の資格を手に入れた。看護師としての初めての仕事は、世田谷にある看護学校系列の総合病院で。「病院の基礎を学びなさい」と言われ、毎日毎日注射をした。ここに2年勤め、最初は色々と大変だったが、採血も出来るようになった。次の職場は、介護士として働いた経験のある精神科の病院へ、今度は看護師として就職した。精神科での看護師の仕事を改めて俯瞰しても、常に遊んでいるような楽な仕事だった。自分が感じた嫌な思いを介護士さん達にして欲しくないと思い、介護士さんと一緒に動き、働いた。介護士さんの協力あってこその仕事なので、感謝の気持ちをもって接すると何かと頼ってくれ、情報も集まるようになった。68歳まで7年勤めた。

 その後、高齢者向けの人材紹介サービスから、有料老人ホームの仕事を紹介され2年間勤めた。そこは大手の高級老人ホームで、入居金は当時800 万円を超えた。入所者は“お客様” で、精神科の“患者”と扱いは全く違った。精神科の時は男性のような言葉遣いだったが、ここではお客様に対しての常に敬語の「様付け」で話すよう求められた。食堂での食事見守りは、入室してくる方に深くお辞儀をして迎えた。“お客様” も落ち着いて上品だと良いのだが、“ひがみ” や“やっかみ” が激しく、ちょっとした事でも家族を通したクレームに発展する事が日常茶飯事だった。入所者のストレスも溜まりに溜まり、怒鳴ったりオムツをぶん投げたり、認知症のある方は便を壁に塗りたくったりと大変な状態だった。スタッフはただ黙々と掃除をした。殆どの家族は、親を施設に入れてしまった後は面会にも来ない。足しげく通う家族は相続目当て位なもので、入所者が外へ出る機会は通院ぐらいだった。桜の季節に施設を出てすぐの所までお連れした事が一度だけあるが、施設側から大層怒られた。曰く「怪我をさせたら誰が責任を取る?」と。確かに、日頃から施設に責任が向かないように腐心し、擦り傷程度の怪我でも家族に逐一報告していた。よく「施設に預ければ、人の目もあるので安心だ」と言われるが、本当にそうだろうか。朝になって亡くなっているのを発見する事は、勤めている間に何度もあった。また、対応は機械的かつ義務的。会話も感情や熱の無い、その場だけのやり取りに過ぎない。食事や入浴以外の活動と言えば共有フロアでテレビを眺めるような、味も素っ気も無い生活が繰り返されていく。元気だった入所者も日に日に歩けなくなり、認知症を拗らせていくのを何例もみてきた。そんな中、数人の入所者は明らかにイキイキとしていた。その方々は決まって通所サービス(デイサービスやデイケア)を日中利用し、他者と触れ合う時間を持っていた。多少発熱があっても「行く」と言い、利用日を楽しみにされていた。他の方も通えるよう、相談員やケアマネジャーに何度も利用を提案したが、保険点数を理由に断られた。

 コロナ禍でギスギスする空気感に疲れ、老人ホームは70歳で辞めた。しばらく近所の方へ介護ボランティアのようなことをしながら生活していたが、人と触れる機会を持ち続けたい、人のために何か手伝いたいと思い、高齢者向けの人材紹介サービスを通じて“デイサービスももたろう” との縁が繋がった。不定期ではあるがデイサービスの看護スタッフとして、また、少ない枠だが訪問介護のヘルパーとして
仕事をしている。美容師・介護士・看護師と色々な職種を経験し、総合病院・精神病院・有料老人ホーム・デイサービス・訪問介護と様々な職場も経験した。色々あったが、今携わっている介護の現場が一番自由で、自然な会話もできて良いと感じる。自宅で暮らす在宅介護には、家族や友人などが介入する“余白”がある。施設はいつも同じで変化が無く、全て管理されているため“余白” の無い環境だ。動けるうちはデイサービスへ行き、自宅ではヘルパーを頼んで生活し、住み慣れた自分の家で最期を迎えるのが理想だと思う。仮に最期の瞬間が独りであっても、それが人生というもの。私は、そうでありたい。