先日、大地震を想定した避難訓練をしました。スタッフ反省会の後に、市役所防災担当の方に助言いただきました。全てのガラス窓に飛散防止対策を施し、大きな家具は転倒しないように対策予定です。また、エコノミークラス症候群をはじめとする災害関連死を予防することが重要と知り、非常トイレの整備や各種備蓄を進めます。地域との連係や連帯も重要と教えて頂きました。
運命の糸に導かれ [前編]
私は神戸市須磨、大阪湾の海辺に佇む社員寮で生まれた。父は背が高くハンサムで、安田火災の社員として各地を転勤するいわゆる転勤族だ。母は割と良い家の出で、何でもやってもらっていたのか家事が得意な方ではなかった。私は、母に似てずんぐりむっくりとして、人見知りの目立たない子だった。兄弟は、10 歳年上の長男と、6歳年上の次男、そして私と、2歳下の妹。2~3歳の頃、上海支店への転勤に伴い一家揃って上海に移住した。そこは大きなお部屋があり、支那人のお手伝いさんが何人かいて楽しい生活を送った。小さい頃から「食いしん坊の初子」と呼ばれ、ドブで拾った豆か何かを食べて死にかけたそうだ。それもあってか、父からは「家族の中で一番幸せになるのは初子だよ」と事あるごとに言われ、大事にしてもらった。母も長女の私をとても大切にしてくれ、私の姿が見えないと“キチガイ”のように心配したらしい。そんな母も身体が強い方ではなく、上海で大病を患った。母は、父がどこからか手に入れてきた薬を飲みながら、生きるか死ぬかの病床についていた。万策尽きた父は「食べたいものを食べろ、食べて死ね」と半ばヤケになって、食の細る母に食事を何でも与えたそうだ。案の定、大下痢をしてしまうも、悪いものが全部出たのか母は元気になっていった。
現地の人々はよくしてくれたが、日本が敗れると急に立場が変わった。日本人は身ぐるみを剥がされ、略奪もされるようになった。「どうせなら、お世話になったお手伝いさんへ」と、使っていた品々や、特に大切にしていた柱時計もお手伝いさんに譲った。4歳位の時に最終の引き上げ船で着の身着のまま内地に戻った。乗船待ちでごった返す船着き場にて、私は迷子になった。当時は日本人の子の連れ去り事件が多く発生し、母も警戒していたそうだが「食いしん坊の初子」は、当時おやつでも見せられると誰にでもついて行ったそうだ。出航時間が迫る中、父は「4人もいるから、一人ぐらい諦めろ」と諭したそうだが、母は諦めず、血眼になって探してくれた兄に出航ギリギリで見つけてもらった。なぜか真っ白なウサギ皮でできた子供用のオーバーコートを着させられていたそうだ。あの白いコートが目立ったため、見つけてもらうことができたのかもしれない。引上げ船の持ち物制限は厳しく「着ているものならとられない」とのことで、みなが何重にも洋服を着こみパンパンな姿だった。船は九州に着き、何とか無事に内地の土を踏むことができた。そのまま母方の親戚宅へ行き、応接室をあてがわれるも6人家族での生活には手狭で、あちらも生活が大変なため「家族6人も居てもらっては困る」と言われていた。当時の食事と言えば芋か大根で、料理の下手な母が何とか食べられるように調理してくれていた。それもあってか、後年の兄は芋を見ただけで「吐き気がする」と言って嫌っていた。物資は常に質と量共に不足し、兄が配給で貰った靴は、たった一日で靴底がすり減ってしまうありさまだった。母はただでさえ慣れない家事に取り組み、必死に生活を支えてくれた。
大田区の大森に住んでいた母の姉宅に居候した後、新宿区下落合の社宅に入ることができた。ここは高台にある高級住宅街で、有名人や裕福な人々が暮らす地域だ。小学校は、裕福な家庭の子が多い新宿の小学校に入学。小学6年生の2学期に神戸の小学校へ転校し、転校後すぐに修学旅行で東京へ舞い戻った。神戸では、生まれた地の須磨に戻ってきた。学校から帰った夕方に、社宅から水着のまま海水浴場へ出かけ、人気のない海で泳ぐのが好きだった。学生のうちは、早ければ1年半も経たずに転校し、その度に「よろしくお願いします」と新しい同級生に頭を下げたものだ。リンゴの木箱に、もみ殻と共に洋服・食器・学校道具等を詰め込み、何度引っ越しをしたか分からない。神戸の中学校に入学し、2年生の時に秋田の中学校へ転校、卒業式は東京の中学校で迎えた。高校は東京の東洋女子高等学校に入学。「歴史のある良い学校よ」と言われたが、ただ古いだけの学校だった。ここで友人に誘われてテニスをはじめ、短距離走も速かったことで体育部長もした。もともとおっとりした性格で、何事も「私がやる」と頼もしい存在だった妹とは対照的だった。なのに、運動ができるからと周囲から一目置かれ、気付けば中心的な立場になっていることもよくあった。甲子園に行って投手を務めた孫からは、「おばあちゃんの血をひいている」と。しかし、やはり2年生で秋田に転居。テニスの試合で引越しの手伝いができず、妹から文句を言われた記憶がある。
秋田では一等地にある社宅に住み、暗闇に「えんやさー」の掛け声とともに提灯の明かりが灯る『竿灯まつり』を間近で堪能した。また東京の落合に戻ってくる時に、父の強い意向で生後間もない秋田犬の『慎太郎』を列車で連れて帰った。ちぎれんばかりに尻尾を振る姿に、たちまち近所の子供たちのアイドルになったが、当時猛威を振るっていたジステンパーに罹り、あっという間に亡くなってしまう。父は、私たちが学校から帰ってくる前に冷たくなった慎太郎を弔い、悲しませないように配慮してくれた。高校卒業後は富士銀行に就職し、麹町支店に配属された。兄は二人とも早稲田大学を卒業し社会人になっていて、その頃は両親と妹の4人で新宿の下落合に住んでいた。いよいよ父が定年になり、社宅を出なくてはいけなくなると、ぽつんと駅があるだけの千葉の田舎に土地を買って家を建てた。母はお嬢さん育ちのため千葉での田舎暮らしを嫌っていたが、60歳を過ぎた父は、リヤカーを引っ張って庭やスロープを精力的に作った。しかし無理をしすぎたのか、父は身体を壊し結核になってしまい、一年ほど離れて静養していた記憶がある。
結婚は24才の時。主人の妹と、私の妹が大親友だったので「お姉ちゃんと、お兄ちゃんが結婚するといいじゃない」と言われ、それから数年を経て結婚した。主人は背が高くて姿勢が良い、ハンサムな30歳だった。ただ運動は苦手。駅は当時まだなかったが、西府駅近くに義理の父が建ててくれた平屋建てに転居し、今もそこに住んでいる。