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毎日取組んでいる『3分間起立と竹踏み』の効果が出てきました。1年に1回撮る家族写真を見て、お嫁さんから「お母さん、背中が曲がっていないね」(88・♀)や、「3日しか通っていないのに姿勢が良くなったね」(79・♀)と、ご家族も違いを感じられています。諦めなければ、いくつになっても変われるのだと感じる今日この頃です。
幸せは、日常の中に
生まれは静岡県下田。7人兄弟で、上に姉を5人持つ6女として生まれた。私の2つ下に長男の弟。父と母は、共に小学校の先生で、同じ職場で知り合った。父は40歳前に校長先生になったが、結核のため42歳で亡くなった。その時母は39歳、私はまだ6歳だったため、父の思い出はほとんど無い。写真で見る限り、背が高くてスタイルもよい好男子だった。母も下田小町といわれるほど美女だったそうで、二人はお似合いだったようだ。父を見送ってから、父の妹である叔母さんが4~5年間住み込みで家事全般を手伝ってくれた。結婚もせず、私たちのために。その後も母は女手一つで7人の子供を育てつつ、小学校の先生を定年まで続けた。
そんな私たちの生活を支えてくれた長女は小学校の先生になり、4番目の姉は栄養士になった。戦争中は父の実家がある河津に疎開したが、大きな被害は無く頭上を飛び行くB29 を見た記憶があるぐらい。終戦を迎え、私は女学校の試験を受けたが合格せず、補習科に4年間通った。まだ伊豆急行が開通しておらず、家から1時間20分歩いて学校まで通ったが、さほど辛いとは思わなかった。学校では1日中、和裁と洋裁を勉強し、振袖も作れるようになった。卒業後は親戚がやっている病院へ看護助手として勤めながら勉強し、何年かして看護士の国家試験を取得。その後、看護士として世田谷の病院に6年間勤めた。仕事は充実していて楽しかったが、26歳になりそろそろ結婚を考えるようになった。叔母が虎ノ門で旅館をやっており、そこの常連客を紹介された。新橋の電気屋に勤めていて、大人しく無口な3歳年上の男性。仕事で夜遅くなると、旅館によく泊まりに来ていたそう。結婚後、子供を二人もうけた。子供がまだ小さい頃、白糸台に100坪の土地を買って家を建てた。専業主婦になり、庭には砂場やウッドデッキを作り、子供達にもいっぱい遊ばせた。洋裁の技術を生かし、二人の子供服は全て手作り。セーターも編み機で編み、既製品は買ったことが無い。
主人は勤めていた電気屋で通信販売の仕事を手掛け、後に独立して通信販売の電気屋を高円寺に開業した。ラジオの雑誌に“エレックセンター” の名でラジオの工作キットや真空管・ICなど電子部品の広告を出し、ハガキで注文を受けると、郵便で送った。月に1~2回秋葉原の問屋へ買い出しに行き、若い男性を4人も雇って商売は繁盛した。その頃、自宅の隣に家を建て主人の母を引き取った。長男である主人が産まれた時に実の母は亡くなっており、後妻として嫁いできて6人の子を産み、7人兄弟を育ててくれた母。晩年までお世話をした。子供二人が高校を卒業すると、私も主人の会社を手伝いに高円寺へ通うようになった。父と同じく、主人も若い時に結核を患った事があり、それが災いしたのか63歳で亡くなった。急に会社を畳む訳にもいかず、2年程度は私が社長になり友人2人を雇って事業を続けた。会社を畳んだ後は看護士などの仕事をし、その後は転居したマンションでのんびりとした生活を送った。特に趣味も無く、日中はテレビを見て過ごしていた。
現在、息子はマンションの4戸隣りに住んでいて、週1回自ら腕を振るった食事に招いてくれる。娘も近くに住んでおり、週1・2回は一緒に食事をしている。二人とも優しくて、本当に幸せ。今は“デイサービス ももたろう” に週3回通っているが、神経痛で歩くのが辛い事もあり、デイに行かない日は一日中テレビを見ながら横になっている。夕食にはお弁当が届き、一人で自由気ままな生活を楽しんでいる。
最近、変な病気が流行っている。裁縫をしていた事もあり、スタッフの内藤さんからマスクを縫ってくれないかとお願いされ、久しぶりに針を持った。糸が通らなくて大変だったが、家で4枚のマスクを縫ってきた。“デイサービス ももたろう” がコロナで休まれては困る。皆が健康で、病気しないように日々願っている。
晴れた日は自宅からくっきりと富士山が見え、この日常に幸せを感じている。いつまでも、このありふれた日常が続いてくれますように。