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13 年間の長きにわたり、マジックショーで皆様を楽しませて下さった、故・相原さんと薄井さんには感謝してもしきれません。9月からのマジックショーは、薄井さんの紹介で、男性の松村さんと、女性の村松さんペアに交代することになりました。実は松村さんの奥様のお母さまが、以前 “デイサービスももたろう” をご利用になられていたそうで、ご縁を感じますし、とてもありがたいです。

家族のカタチ [後編]

 国内外へ出張する機会も多い多忙な知人夫婦に代わって、そのお母さまを住み込みで介護するようになった。当初2人でローテーションを組んでいたため、週に3~4日のお仕事だったものの、もう一人の方が体調不良等を理由に抜けてからは、文字通り 24 時間 365 日住み込む事になった。3人のお孫さんも含めると、一つ屋根の下に多い時は7人で寝食を共にする生活。夜はお母さまの隣に布団を敷いて眠り、介護から離れる時間は無かった。そんな私を案じて、娘様がデイに行くようにお母さまを説得して下さった。“デイサービス ももたろう” の前に別のデイへ行った事があったそうだが、そこで嫌な思いをされたらしく「もう絶対に行かない」と拒絶されていた。“ももたろう” へは、一度の見学で気に入られ、驚くほどスムーズに通うようになった。スタッフの方々が臨機応変に対応して下さったのが大きいのだろう。定員の関係で週2回 “ももたろう” へ通い、週1回他のデイへ楽しく通われるようになり、とても嬉しかった。デイでも横になって過ごされる時間は長かったものの、横になりながら皆さんと一緒に歌ったり、調子が良ければ輪に入ってゲームに興じられたりする姿もみられた。特に歌がお好きで、『川の流れのように』を口ずさんでおられた。私にとっても、デイに行かれている間だけが一息つける時間。それ以外は身の回りの日常的な介護以外に、買い物・料理・掃除・洗濯・入浴介助など何でもした。“ももたろう” へは通常は車で送迎してもらっていたが、なかなか準備が出来ない日や、通院などで遅くなった日は、私が車いすを押して送迎していたので、“ももたろう” の事はある程度知っていた。

 「最期はふるさとで過ごしたい」との希望で、長野の自宅に居を移され、そこに私も一緒に行き1年ほど住み込みの介護を続けた。ご家族と食卓を囲まれる時期もあったが、次第にベッドでの食事介助となり、在宅生活の最後の方では胃ろうになったため、タン吸引も対応した。本当は自宅で看取ってあげたかったものの、私に原因不明の健康不安が出てきたため、担当ケアマネジャーからの勧めもあって長野の施設に入られた。大変穏やかで優しい方だったので、共に過ごした濃密な3年間は、ストレスを感じることなく楽しかった。いつもニコニコされていて、やさしい言葉を掛けてくださった。実の母と同じぐらい愛おしい存在であり、実の娘のようにケアしたいと思っていた。ある晩「うーん、うーん」と、うなされているお母さまを体調確認のため起こすと「…あなたを産んでいたの…」と仰った。気持ちの上で本当の娘になったような感覚を味わい、涙が出そうになった。

 東京に戻り、また若い人たちとのシェアハウス生活が始まった。年齢は娘と同じぐらいの人が多く、ひとりひとりの将来を考えながら、どのように接するべきか親の心で考えるようにしている。さて仕事はどうしようかと考え、ご縁のあった “ももたろう” で働けないか尋ねに伺ったのが、今から丁度2年前。現在は“ケアももたろう”で訪問介護のヘルパーとして利用者様のご自宅へ行ったり、“デイサービスももたろう” で看護師としての仕事をしたりしている。介護はその人の生活や人生に大きく関われるため、看護よりも好きで、天職と思っている。プライベートでは、赤ちゃんが産まれた知人宅へ、 新生児の頃からお世話に通っている。2歳になり「おばあちゃん」と呼んでくれるあの子の、“おばあちゃん” として記憶に残してくれたら嬉しい。娘も結婚していれば、そろそろ孫を授かっている年齢と想うと感慨深いものがある。こうして本当の家族と同じぐらい、目の前の人を愛すれば、きっとまわりまわって本当の家族にも愛が届くと信じているし、家族と思って心から接すれば、例え他人だとしても家族になれると思っている。佐渡の母、12 歳を最後に音信不通の娘、もしかしたら産まれているかもしれない孫に向けて、「愛に出会えますように、楽しい事・嬉しい事が一日に1つでもありますように」「家庭の中で、どうか愛されていますように」と、毎日祈っている。

 私の人生において、10 年前の脳出血は必要な出来事だったと思っている。結果的に、私のための環境を呼び込んでくれたことに感謝している。リハビリのために佐渡の故郷へ帰り、母と過ごした時間はかけがえのないものとなり、その後の人生も前向きになれた。病気を悲観する事は、もうしない。だって私には、こんなに近くに、母も、娘や息子、孫までできた。この家族のカタチは、あの病気が無ければ手に入れることはなかったと思う。私にとっての “人生” とは、「人」のために「生」きること。そうなるようにできているのだと思う。現在 64 歳、残してもらったこの命を、人に尽くして、これからも前を向いて生きていきたい。