1月 25 日(土)に1月の誕生会を催しました。主に民謡を歌って踊って、最後に誕生月の方がお一人お一人楽しいお洒落をして写真を撮りました。ご家族から「こんな素敵な写真を撮ってもらって、大切にします」と、お言葉を頂きました。お昼はいつもと趣の違う、お寿司を召し上がって頂きました。これから毎月誕生会をする予定で、次回は2月 18 日(火)の予定です。
運命の糸に導かれ [後編]
義理の父は小学校までしか通わず、大変な苦労の末に商売で成功した人だ。中央線の新宿ガード下に区画を借り、うどん屋を始めたのが事業の始まりだそうだ。その後、菓子屋やパン屋なども開業し、喫茶店へも参入した。子供は9人兄弟。男兄弟はみな大学を出て、女姉妹も短大などを出ている。義父は子供たちが困らないよう、息子には家を、娘にはまとまったお金を用意してくれたそうだ。変わり者の長男がまたやり手で、一時は新宿や池袋に純喫茶を何店舗も経営していた。兄弟は各々商売を継ぎ、姉妹も旅館や料理屋に嫁いでいった。主人も父親から「商売を継げ」と何度も説得されたそうだが折れず、主人だけが会社員の道を選んだ。おそらく主人は会社員のほうが向いている。キングレコードに勤め、春日八郎についてよく地方へ出張していた。義理の母も大変良い人で色々優しくしてもらい、子供はようやく授かった息子が一人。24 歳で迎えたお産は軽く、産まれてきた息子も健康そのもの。嬉しくて、義父や義母の反対を押し切り産後すぐに夫の実家がある新宿・大久保から、千葉・大和田まで車で移動することにした。今と違って車や道路はガタガタした時代で、その衝撃が悪かったのだろう。着いた実家で大出血を起こし、布団を通り越して畳にまで血が広がった。父の憧れで移住した千葉での田舎暮らしが仇となり、近くに医者はいない。父が必死になって連れてきた医者に診てもらったが命の危険はしばらく続き、あの母が何度も諦めたと聞く。若くなければ、あの時に間違いなく死んでいただろう。「平凡でいいから元気でいてほしい」と願った息子は、食欲もあり元気に育ってくれた。
運命的な出会いがもう一つある。すぐ近所に住む同い年の女性と仲良くなった。親しくなってしばらく経ってから知ったのだが、彼女も上海で育ち、まさにあの私が乗り損ねそうになった最終船で内地に戻ってきた引揚者だという。運命を感じない方が難しい。私の上海の記憶はそう多くなく、その方から教えてもらったことや、話していて思い出したことが多い。二人して上海の地を踏めればよかった、兄から上海の話をもっと聞いておけばよかったその方以外にもご近所のお友達数人、今も仲良くしてくれている。友達もみな良い人で、私には勿体ないくらい優秀な人ばかり。子供の手が離れたころからテニスにまた没頭し、近所の主婦の方々と真っ黒に日焼けするまで熱中していた。今でもその友人達と月に1度の食事会をしている。実はそのうちの一人は、認知症のためにトイレにも介助が必要になっているのだが、食事会の声を掛けると、毎回ご主人が連れてきてくれる。一緒の席についてもほとんど会話といえる会話はできないものの、そばでニコニコしながら楽しそうに過ごしている。
主人は 60 歳で定年退職し「もう仕事は十分」と、その後は文化センターや生涯学習センターへ自転車で行き、本を読んだりして色々な勉強をしていた。現在 91 歳、数年前から自宅での生活にやや支障がでてきたため、私の負担を軽減するために市内の介護施設へ入所してくれていて、月に2回ほど息子が面会に連れて行ってくれる。元から人柄がよくて敵を作らない性格もあってか、できたばかりの施設への愚痴はなに一つ言わずに、いつも幸せそうな顔をしている。私は西府の一軒家に一人で暮らし、近くに住む息子たちが毎日のように一緒に食事をしてくれる。やんちゃで色々悪さもした息子も良き父親となり、結婚してくれた「お嫁ちゃん」がまた大変良い人。『デイサービスももたろう』から戻ると、お嫁ちゃんに楽しかった出来事をゆっくり話している。一緒にコタツへ入り、お嫁ちゃんの趣味である編み物が少しずつ紡がれていくのを眺める、あのゆっくりとした何とも言えない穏やかな時間に、深い幸せを感じる。孫も甲子園でピッチャーを務め、テレビで観戦ではずいぶん楽しませてもらった。
私は、この 1 月で 84 歳になった。『デイサービスももたろう』へは、主人のお世話もしてくれたケアマネジャーさんから紹介してもらって通うようになり、1月からは週3回に増やして通っている。昼食がおいしいのでよく食べ、元気になっている実感がある。活動は押絵と書道をしていて、1月からは土曜日の制作も。退屈することなく一日ずっと楽しく、気を遣うでもなく普通にしていられる事は、正直にすごいと思う。スタッフもみな良い人で、適度に身体を動かすよう指導してくれ、頭も使える。手先を使う押絵の作品が出来上がると、お嫁ちゃんが喜んでくれるのもうれしい。デイは自分で選んだ訳でもないのに、こんなにも良いところに出会えたことを感謝している。
私は昔からポケーっとしていて「辛いことは何もないだろう」と兄に言われたものだ。それに、ほかの兄弟はすらっとした美形だったため、小さくてぽっちゃりしていた私にあまり期待を寄せられなかったのが逆に良かったのかもしれないし、それが大切にしてもらえた理由なのかもしれない。ちなみに、中学2年生ごろから急に背が伸び始め、身長は妹と並ぶまでになった。人生は自分の努力ではどうにもならないことも多いが、最終的に釣り合うようにできているのかもしれない。
昨年の大晦日、親族が自宅に集まっているさなか、うっかり段差で転んでしまった。幸い怪我はなく、正月に予約していた石和温泉へ予定通り9人で旅行へ行けた。1月中は肺の調子が悪くデイを休みがちになってしまったが、私の人生を振り返ってみると、とことんついていた人生だった。何度か危なかった時以外、大きな病気もせずに周囲の人にも恵まれている。そんな私を見て、妹は「ずるい、ずるい」と言っていた。人が好きで人を大事にしていると、それ以上に大事にしてくれる。主人も大事にしてくれて、結婚して本当に良かった。私の人生の一番は、息子が産まれたこと。義父のおかげで苦労せずに生活できた事も感謝している。これ以上の人生も無いし、この先これ以上を期待してはバチが当たる。辛い時もあるが、長々と考えずに「しょうながい」と受け止めていれば、そのうち絶対に人生は輝いてくる。「絶対に幸せな方にもっていくんだ」と前を向く。諦めたらそれで人生は終わりなのだから。常に導かれているように感じた、私の “ついている人生”。できることなら、このツキを次の人に渡して死にたい。