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4~6月の誕生日会を6月25日の夜に開催しました。今回の参加者は6名で、ボランティア3人の方々による心温まるお料理や踊りを堪能していただきました。最後は花束を一人一人手渡してもらい、笑顔笑顔で帰宅されました。★今年の『クリスマス会&作品展』はルミエール府中にて12月1日(土)に開催します。ご期待下さい。

上を向いて歩こ

 私は石見銀山がある、自然豊かな島根県太田市に生まれた。家から海が近く、小さい頃から日本海へよく泳ぎに行った。綺麗な砂浜や貝の採れる岩場、飛び込み台もあってそこから跳んでは海岸べりまで泳いで遊んだ。8人兄弟の上から3人目。兄弟は男4人に女4人。父は製材所に勤め、刃物の管理をしていた。母は専業主婦で、祖母も含め11人の明るい家族。祖母は子守や掃除の他に畑や海の仕事もしていて、お米や野菜を作ったり、ワカメを干して売ったりもしていた。小さい頃は祖母の田んぼから稲を刈り、おいしいお米を頂いた。漁港も近くにあり、おじさんが毎日のように新鮮な魚を売りに来ていた。新鮮なタイやノドグロは煮ても焼いても、とても美味しかった。今でも東京の魚には馴染めず、刺身は食べた事が無い。
 小学生時代に戦争が始まった。都会から疎開してくる人や、兵隊の訓練施設に動員される人など、出入り多い土地だった。出陣を祝うために、毎週のように駅へ行かされていた。父は足のケガが原因で戦争へは行かなかったが、銃後の訓練には参加していた。空襲警報は度々鳴り、勉強をする余裕などなかった時代だ。田舎なのでアメリカの爆撃機が上空に来る事はほとんどなかったが、夜は光が漏れないよう、薄暗い中で静かに生活していた。祖母の田畑で採れる米や野菜は自家消費分として国へ供出せずに済み、海の恵みもあり食事に困る事は無かった。
 結婚は20 代半ばに、隣町に住んでいる人と。兄が気に行った1歳年上の男性だ。夫の仕事の関係で島根県から広島県広島市に移った。広島市は原爆の傷跡も癒えてきた頃で、映画館やデパートも有り、島根県に比べると大都会だった。都会は田舎のように人の噂話をいちいち言わないのが、煩わしく無くて良かった。主人は大成建設の下請けとして工務店を経営し、近所に寮を建ててそこに10人位職人を住まわせていた。私も近所の女性と一緒に賄いをしながら、経理や事務仕事を一人でこなした。車の免許は主人と二人で取りに行き、監督署や職業安定所等へ出掛ける仕事もこなした。遊んでいる暇などない日々だったが、子供の手が離れた頃から習い事を始めた。「かな文字」「お茶」「お花」「小唄」などを習っていた。何でも一生懸命に取り組む性格なので、上達は早かった。今でも茶器や三味線の一式が家にある。
 主人は65歳位の頃に病気で亡くなったが、その後も数年間は私が主人の仕事を引き継いで事業を継続した。70歳の時に仕事を辞め、その後は年金生活を送っていた。ボランティアで「かな文字」を教えたり、カラオケ、ゲートボールにも参加して、毎日がとても充実していた。東京と島根を往復することも有ったため、車が必要で85歳位まで運転していた。
 息子の住む広島を離れ、1年半前に府中の娘宅に移った。府中でもグリーンプラザ等で趣味活動にも参加していたが、今年の1月から“デイサービス ももたろう” に通っている。最初は長く続けていた「習字」をするために“ももたろう” へ行くようになったが、今では火曜日の「民謡」と金曜日の「アウトドア」にも参加している。この3つの活動は、私に合っていてどれもとても楽しい。特にアウトドアは、府中の色々な所に連れて行ってもらえ、歩くのは好きだが土地勘の無い私には大変嬉しい。以前はヒールの靴ばかり履いていたが、今は歩きやすいスニーカーが中心になった。毎朝の身支度は自分で考えて着ている。皆さんに「素敵ね、似合うね」と服装や装飾品を褒めてもらえるのが嬉しい。皆さんと一緒に楽しく話している時間が何よりも一番楽しい。
 人生を振り返ってみて、今までなに不自由なく生活ができた事に感謝している。何をするにも健康が一番。魚をよく食べていたからか、身体が丈夫で大きな病気をした覚えは無い。「なんでもよく食べ、お酒は飲まない、くよくよしない!」が私の健康法。体を動かす事も好きで、最近もスーパーへ30分歩いて行く事がある。89歳になった今、皆さんから「若いわね」「おしゃれね」とよく言われる。こんなにも楽しい人生なのだから、いつまでも健康でいたい。今の私には、“ももたろうに行く事” が元気の源。