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1月より毎週月曜日と、金曜日の月に2回ほど『笑いヨガ』をして、今日で20 回目になります。最初は恥ずかしがっていた方も、回を重ねるごとに表情豊になり「笑いすぎてお腹が痛い!笑うと病気も吹っ飛んじゃうね!」と、楽しそうに取り組まれています。ずっと表情が硬かった方も、7回目で初めて笑われ、和やかな雰囲気です。
繋がり、輪ができ、発展していく
私が“デイサービス ももたろう” に演奏ボランティアでお伺いすることになったのは、今から2 年前に“ケア ももたろう” から介護士さんお二人が二日間、妻の介護で自宅に来ていただいた事が始まりです。
私は昭和23年、上に兄5人、姉4人を持つ10人兄弟の末っ子として博多に生まれました。博多の実家は大正から昭和にかけて父が「おはぎ屋」を営み、大層流行ったそうです。戦後に私が生まれ、その後半年で父は病気のため亡くなってしまい、母や兄姉は苦労したと思います。私とすぐ上の姉は兄姉と年が離れていたため、殆ど苦労せずに育ち、小さい頃から引込思案な性格でした。一番上の姉と私は22歳違い、姉の最初の子( 姪) は同い年で、同じ小学校に通いました。
ギターとの出会いは中学時代、当時は三橋美智也、春日八郎の演歌華やかなりし頃、兄達が質屋で3000円のギターを買ってきて、『別れの一本杉』『影を慕いて』等の曲を練習していましたが、じきに誰もギターを弾かなくなり、私が貰い受ける形になりました。本格的にギターを始めたのは、高校に入ってから。近所の駐車場でアルバイトをしていた大学生が、夜になるとクラシックギターで演奏していた『禁じられた遊び』に魅せられてからです。地元の大学に入ると、当時流行っていたフォークソングが好きな同じクラスの男女でグループを結成し、その年の学園祭で披露しました。二年生の時、同級生の女の子からヤマハギター教室の演奏会へ誘われ、やはりギターを生半可に弾くのではなく基礎から学ばなければいけないと決意し、教室へ通うようになりました。ここでクラシックギターを基礎から本格的に学んだことが、私の音楽人生、つまりギター演奏をこの年まで続けられていることに繋がっているため、感謝しています。
私と妻は会社が一緒で、入社2年目に九州本社の英会話クラスで知り合いました。1975 年からの第1次オイルショックで会社も大幅な事業転換を強いられ、当時担当していた外国部から東京支店の営業部門に異動することになり、1976 年4月に博多で結婚式を挙げると同時に東京へ転勤し、武蔵野市にて新生活が始まりました。転勤後は主に国内営業と海外営業を長く勤め、武蔵野市~宇都宮市~水戸市~広島市~調布市と転勤を繰り返し、20年前から府中市に落ち着きました。その間ベトナムに3年駐在し、海外出張もたびたびあり、よく家を空けていました。子供は男の子を3人もうけ、私が国内外の出張や海外単身赴任中、妻には子供の世話等で相当苦労を掛けてしまいました。私がベトナムに単身赴任中に、妻はパートタイムで勤務していた職場の定期検診にてC 型肝炎がわかり、その治療に高額な医療費を要することを私には告げず、一人で悶々としていたようです。当時は現在のように簡単に通信できる環境ではなく、私は忙しさにかまけて長く妻の病状を知らず、結果的に治療が遅れてしまいました。今は本当に後悔と申し訳なさで、自分が先に逝くべきだったと思っています。
60歳で定年を延長してからは単身赴任もなく、休日には府中市内の特別養護老人ホームへ10年以上、妻と共に歌のボランティアを続けました。今は妻が亡くなり又、コロナで中断していますが、妻と過ごした幸せな時間です。妻は亡くなる5年ほど前から入退院を繰り返し、意を決して2018 年10月にパリ旅行の計画を立てましたが、体調の急変で出発2週間前にキャンセルしました。2019 年9月29日は音楽仲間との大事な演奏会の日でした。その数日前から妻の体調が急に悪くなったのですが、欠席しづらく、前日の練習会と当日の2日間、各4時間程留守にする間の介護を“ケア ももたろう” にお願いしました。妻は介護士さんと夕食の準備や洗濯物を畳んだり、趣味で描いた絵の整理をしながら楽しくお喋りしたそうで、私の音楽活動についても詳しく説明したそうです。翌月からは介護保険の訪問サービスも予定していましたが、残念なことに妻はその日から10日余りであっけなく、69年の生涯を閉じてしまいました。月日があっというまに過ぎ去ったある日、妻がお世話になった介護士さんから連絡があり「“ももたろう” でギターを演奏していただけませんか?」と思いがけないお話をいただきました。早速合唱団仲間3人に声をかけて、その年の暮れから皆さまの前で演奏しています。
73歳の今考える、『よい老後を過ごす4要素』。まずは【健康】勤めていた頃に胃がんの手術を受けましたが、食事にも気を付け今は元気です。毎朝5時半に起き、規則正しい生活をしています。第2が【お金】自由に使えるお金があり、生活に困らないことです。続いて【仲間】定年後に知り合った合唱団仲間、“くらやみ祭り” 等の町内会仲間、今はコロナで会えませんが、会社OB 仲間、学生時代の同級生、息子たち家族もよく遊びにきてくれます。そして、没頭できる【趣味】退職後に東京外国語大学の社会人公開講座に通い、若い学生と共にフランス語やベトナム近現代史等を学びましたが、今は歌とギター一筋です。幾つでも、どこでも、学ぶ気持ちがあればできると実感しています。この4要素がうまく備えられたのは、やはり40数年間勤められた会社のおかげと思います。創業174 年の会社で、私が仕えた4代目・5代目の社長が、日本有数の会社に発展させました。私は5代目の社長と10数年海外出張に随行し、ベトナム工場とブラジル本格工場の設立で会社の発展に貢献できたことを自分の中で誇りに思っています。人に恵まれ、人との繋がりで豊かになった人生。特に妻との運命的な出会いはとてつもなく大きく、常に仕事を陰で支えてくれていました。妻は常に前向きでした。絵・英語・歌など、本当は苦手な事ですが、積極的に取り組む事で克服していきました。病気にも前向きに立ち向かっていた妻を亡くしてからは、“心ここにあらず” の生活が続きましたが、歌や仲間によって立ち直る事ができました。妻のためにも、あと5年は今のペースで活動を続けていけたらと思っています。