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16 年間休むことなく『押絵』の指導をしてきた太田が、家庭の事情で直接の指導ができなくなりました。今までと同じく立案から準備はしてくれますが、デイでの指導は他のスタッフが引き継ぎます。火曜日は引き続き『押絵』を、水曜日は『指編み』・『フラダンス』と『アイロンビーズ』を月2回ずつ行います。新しい制作にご期待ください。

お金よりも、人のために

 山形県東奥暘群の農家に、5人兄弟の4 番目として生まれた。盆地のため夏は暑く40 度近くまで上がる半面、冬は雪のため二階から出入りするような豪雪地域だった。一帯が農村地帯だったこともあり、戦争中は鮮魚こそ珍しかったが、米も果物も野菜もあり、田んぼを耕すために飼っていた牛を肉にすると肉も食べられた。村には製糸工場が2つあり、その工場を狙ってかB29 が低空でよく飛んできて焼夷弾を落としていった。兄は18 歳で学徒動員され、1945 年12 月に帰ってきた。父は戦争に行かずに村中で協力しながら米や桑を作った。終戦間際に小学1年生になったが、入学式も無く学校には行けないため、公民館で勉強した。机や椅子すら無かったため、畳の部屋で車座になって勉強した。小学1年の8月に終戦を迎え、9月からは黒塗りばかりの教科書を使って学校で勉強できるようになった。小学校も中学校もあまり勉強した記憶はないが、良い先生に恵まれた。小学校の担任は本を読んでくれ、それで本が好きになった。15 歳の時に村の図書館で伝記を読み、“お金よりも、人のために仕事をしたい” と思うようになっていった。中学校卒業後は「人が好きだから、看護婦になる」と親を説き、山形県米沢市にある病院併設の看護学校へ通いはじめた。仲間20 人と寝食を共にし、小遣いまで貰って2年間住み込みで勉強した。看護の勉強以外にも数学・英語・国語の授業があった。無事看護試験に合格し2年間のお礼奉公を終えると、先輩を追って上京。19 歳で国立相模原病院に就職し整形外科に1年間勤めた。ここは周囲を麦畑に囲まれ、山形の田舎より田舎だった。たくさんの傷病兵がいわゆる社会的に入院している病院で、片足の無い人や手が無い人が殆どだった。結核病棟もあり、入梅の時期は血を吐いて亡くなる方がとても多かった。一緒に働いていた先生から練馬に整形外科を開業するので一緒に来て欲しいと言われ、転職した。先生と奥様は大変良い人で、結婚まで4年間勤めた。

 23 歳の時、4歳年上の夫と結婚した。米沢の病院勤務の時に、夫の父親が通院してきた縁で出逢った。家業の関係で足立区の町工場に見習いとして上京していたが、お互い惹かれ合って文通が続いていた。狛江市に転居し、25 歳で長男を出産。その後専業主婦になり28 歳の時に稲城市で長女を出産した。元スポーツマンの夫は穏やかな性格で、喧嘩をしたことがない。そんな夫は40 歳の時、「アッ!」と夜に声を出したきり心臓発作で倒れた。私も懸命に心臓マッサージし、かかりつけのお医者さんにすぐ来て貰った。駆けつけた女医さんは「なんで!」と大泣きしながら、救急車は呼ばずに死亡診断書したためてくれた。目の前で父を亡くした子供たちは、まだ小学5年と3年生だった。女手一人の子育てを案じた山形の兄がわざわざ迎えに来てくれたが、子供たちは行きたがらず「お母さんだけ行けば」と言われ目が覚めた。一人で2人の子供を育てていく覚悟が決まった。時代はベビーブーム。美濃部都知事の改革で0歳保育を始めるにあたり、稲城市が看護婦を募集していた。募集は35歳までだったが、36 歳になった12 月に採用され、その後60 歳まで4か所の保育園に勤めた。休めない仕事だったが、子供たちが病気になった時や研修の時など、近所の方々が子供の面倒を色々見てくださった。近所の方々が育ててくれたようなものだ。朝ごはんとお弁当を作り、子供たちを学校へ送り出してから仕事へ行き、仕事が終わればお腹を空かせた子供たちのもとへ戻り、料理を作る生活。とにかく無我夢中の日々、息子に「極貧」と言われながらも親類からの仕送りがありがたかった。

 勉強しろとは言わなかったが、息子は中央大学法学部に進学。しばらくして大学からの手紙で退学を知る。「何も言わないでくれ」と言われて浪人生を見守る事4年。浪人中はアルバイトをしながら勉強し、「お金を出してほしい」とは言わなかった。東京医科歯科大学と慶応大学医学部に合格し「人間の幅を広げられる」との助言や、息子曰く「授業料が安い」から慶応大学を選んだそう。授業料の半分は私が出し、もう半分は奨学金で賄った。卒業後も何科になるのか言わなかったが、循環器内科を選んでいた。それからずっと、心臓を治療し続けている。長女も看護学校を出て看護師になった。

 パートとして65 歳まで保健所で仕事をし、ようやくできた自由な時間でコンサートや芝居、国内旅行を楽しみ、北海道から沖縄まで全部回った。住んでいた稲城の家は区画整理のため、昨年10 月から府中に移り住んでいる。娘も息子も一緒に住もうと言ってくれたが、まだ一人で生活したい。娘の家から300メートルの距離にある庭付きの家に移り住み、花を植え、掃除をするのが今の趣味。人に恵まれ、現在85 歳。特に大切にしているのは“記憶” だ。忘れないように、新しく覚えられるように気を付けて生活している。今の時代は便利すぎるため、あえてテレビ・電子レンジ・掃除機の無い生活をしている。『医食同源』をモットーに食事にも気を付けていて、冷凍食品は使わない。情報もありすぎるため、新聞・ラジオ・娘が買ってきてくれる本で十分すぎるほど知識を得ている。70 歳ぐらいから曲がってきた腰は、月に1回のブロック注射を14 年間続けていて、ありがたいことに痛みはない。

 “デイサービス ももたろう” には、今年の3月から通っている。やはり最初は嫌だったが、娘に言われて行くようになった。行ってみるととても良いところで、いつも社会勉強をさせてもらっている。昼食がとてもおいしいのも良い。この生活が、この記憶が、いつまでも続けばいいのにと思う。