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巷ではインフルとコロナの感染者がまた増えています。デイももたろうでは、朝から何回ともなく手洗いをして頂いています。お陰様で利用者様・スタッフは、昨年の夏ごろから罹っていません。皆様大変お元気で、多くの方が昼食も完食されています。まだまだ油断出来ませんが、ご家族のご協力があってのことと感謝しています。
共に生きてゆく
生まれは、茨城県の鹿島。鹿島灘と利根川に挟まれた地形で、利根川寄りの場所。父は鹿島灘や利根川で採れた新鮮な魚を売る魚屋さんと、サツマイモを中心にトマトなどの野菜を育てる農家をしていた。
兄弟は、姉・私・妹・弟・妹・弟・妹の7 人兄弟で、姉と私は7歳離れていた。大きな家に祖父母を含む11 人で生活していた。祖父母や母も農業や漁業をして、一家総出で働いた。鹿島は海軍航空隊の訓練地で、戦争が始まる前の私が小さい頃から、地域のご家庭が兵隊さんの下宿を受け入れていた。我が家にも8 畳と10 畳の部屋が兵隊さん用の部屋で、定期的に10 人位ずつ家に泊まっていた。訓練期間の10日から3週間は朝晩の食事を出し、お風呂にも入ってもらった。物心ついてから自宅に兵隊さんがいるのが普通の暮らしで、一緒に遊んでくれたり、本を読んでくれたりと、とても楽しい思い出がある。下宿生活が終わった後も、手紙や児童書を送ってくれる人もいた。下宿生活が終わる最後の日には、みんなで写真を撮った。今でもたくさんの写真があり、思い出が詰まっている。そんな兵隊さんの一人に、大高ひさをさんがいらした。下宿中に父と仲良くなったそうで、戦後も度々泊りにきていた。戦後に数々の名曲を生み出し、“デイサービスももたろう” でもよく歌う『炭坑節』(戦後5年目に発表)も作詞した作詞家さんだ。” ももたろう” で毎日のように歌う有名な名曲が、知人の作詞というのはとても感慨深い。
父は身体が弱くリウマチ体質だったこともあり、戦争には行かなかった。空襲は度々あり、農仕事や学校に行っても、空襲になると防空壕にとんで入った。この時代は学校でも勉強はしなかったし、できなかった。それに小学4年生の時、喘息と心臓が悪化して入退院を繰り返した。夏には少し学校へ行けたが、その他はまるまる学校を休んだ。体調が回復してきた翌年の小学校5年生から、家族全員11 人分の夕食の支度をするようになった。姉は同じ年の親戚と共に、日赤の看護婦として働きに出ていたため、家では私が長女のような存在だった。弟や妹の世話をしながら、煮物や焼き物を用意して、そんなに大変と思った事はない。別の炊事場では、祖母が兵隊さんの食事を調理していた。戦争中、自分たちの主食は麦ごはんになったが、兵隊さんの食事にはイモ入りのごはんを出した。おかずは、畑で取れた野菜や、祖父が川で捕ったばかりの新鮮な川魚を煮たり焼いたりした食事が並んだ。戦争中でも食事に困る事は無く、5年生の夏に終戦を迎えた。
ちょうど新制中学制度が始まり、男女共学の3年制中学校の一期生になった。中学校時代の思い出は、友人がたくさんできたこと。3つの小学校の生徒が一つの中学校に集まり、多くの同級生に囲まれた。どちらかというと大人しい性格で、先頭に立つ感じではない私も、母が作ってくれた弁当を持って毎日楽しく通った。中学卒業後に高校へ進学する友人はまれで、私も進学はせずに和裁学校に2年間通いながら、家の農業も手伝っていた。他の農家の嫁に来てほしいという話しもいくつかあったが、体が弱いため「農家に嫁ぐのだけは嫌だ」と言って、小岩に住んでいる叔父さんのところに転がり込むようにして上京した。そちらでも1年間洋裁学校に通った。その後、家具屋さんの手伝いとして住み込み働くようになり、同じく住み込みの従業員さんたち10 人分ぐらいの食事を調理するようになった。そこで出会った人と結婚し、世田谷に居を移すことになった。新居に持っていく布団類や洋服は全部自分で縫った。主人は10 歳年上の34 歳、私は24 歳の時だった。主人は年も離れている事もあり優しい人。主人の両親は既に他界しており、新婚生活も気楽ではあった。
子供は男の子2 人をもうけ、20・30 代は子供を育てる時期としてほとんど専業主婦をしていた。子供の手が離れた50 歳ぐらいから、本格的にヘルパーの仕事を始めた。ご飯作り・洗濯や掃除は、子供の頃からしていたので大得意。78 歳になるまで楽しく仕事をした。そんな私も今年で90 歳を迎え、7人兄弟の全員が今も元気に生活をしている。日赤病院の看護婦をしていた1 番上の姉は、現在96 歳。89 歳の妹は、矢野口に住んでいて行ったり来たりしている。その下の妹や弟は、鹿島に住んでいる。鹿島は東京にも近いし、天候も良く、魚がおいしいので住み心地が良い。
主人が亡くなってから団地に越して一人で住んでいたが、今は息子が一緒に生活してくれている。優しい息子で何でもよく気が付き、いつも食べ物を買ってきてくれる。心不全での入院をきっかけに“デイサービスももたろう” へ通うようになり、今も週4回通っている。“ケアももたろう” のヘルパーさんには日曜日以外毎日手伝ってもらい、楽しく生活できている。介護は自分でも仕事として取り組んでいただけに、大変さはよくわかる。なるべく文句を言わないように、細かい事を言わないようにして「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えるようにしている。でも、とても良くしてもらっているから不満はない。デイサービスに行けば友達にも会え、好きな作品作りもできる。作品は家に取ってあって、一つ一つが思い出になっている。人生を振り返って、食事に困る事も無くいい生活が送れたと思う。今の生活が一番良い。この生活が続いてゆく事が、一番幸せ。