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今年の冬は利用者様・スタッフ共にインフルエンザ「ゼロ」でした。本当に嬉しいことです。朝来所されてから、お帰りになるまでの間、何度も手洗い・ウガイをしていただきます。ある方は「ここで手洗いの習慣ができ、帰ってからも必ずするのよ」とか、「いつもいつも洗ってばかりいたら、手がふやけないかな?」等の声を聞きます。少しの心がけで健康・長寿が実現できる素晴らしい習慣、続けていきます。
セピアの向こう
「ママ、辞めるんじゃないよ。皆に合わせてちゃんとやってるの?」同居の娘に毎回言われる言葉だ。今まで数件のデイサービスを利用したが、長くは続かず「やっぱり辞めたい」と言って辞めていた。送り出す娘としては気が気でないのだろう。「あそこは気に入ったのよ」と言うと、「珍しいね」と一応納得してくれている。“ももたろう” は見学で部屋に入った瞬間「ここは良いな」と思った。
生まれは東京・世田谷で、四人兄弟の長女として生まれた。若いころは洋裁学校の講師や、銀座の呉服屋“むら田” で働いた。主人は世田谷の自宅近くに住んでいた人で、東宝撮影所の監督として特撮映画を作っていた人だ。なぜ結婚したのかわからないが、近所で仲良くなったのがきっかけだ。背は小さかったが、顔は良かった。と言っても、今生きているのかどうかも分からない。実は相当の浮気者で、結婚後にも女優さんたちと仲良くしていた。最初は「仕事柄そういうものだ」と、気にしないようにしていたが、家の外で子供を作ったのをきっかけに、五十年前に離婚した。
三十代半ばだっただろうか。女手一人、小学生の娘を育てなければならなくなった。主人の仕事と関係して、カメラの知識を知らず知らずのうちに習得していたのが功を奏した。写真館の知り合いに技術を習い、他の知り合いから府中市新町に場所を貸り、一人で写真館を作り上げた。前職の知識やセンスも役に立ったと思う。この時代、府中に写真館は数件しかなく、市境の立地も手伝って面白いほどお客さんが来てくれた。実入りも多かったと思うが、使ってしまうお金も多く、手元には全然残らなかった。わざわざ写真を撮りに来る人は、素敵な方が多く仕事はとても楽しかった。今でもお客さんに会って、当時のお礼をしたいと思うことがある。
仕事を辞めた後も新町に一人で住んでいたが、ここ3カ月程前から色々おかしくなって、府中駅前に住む娘夫婦の所に移り住んだ。土曜日に新町の家まで送ってもらい、土日を一人でゆっくり過ごしている。週が明けた月曜日にまた娘の所に。娘は可愛いワンちゃんを飼っていて、昼間の面倒を私が見ている。でも、「ワンちゃんと2人だとボケる」と、デイサービスに行く事を勧められ、“ももたろう” に行くようになった。昔、洋裁をしていたため、「(布を使う)押絵は得意でしょ?」とよく訊かれるが、嫌というほど布を使った仕事をしていたので、今は嫌。皆さんと話をしたり、色々な活動をしたりするのがとても楽しい。
85歳になって思うことがある。「年をとったら、もうどうしようもない」と思いつつも、お迎えが来るまでは生きていかなくてはいけない。昔、姉がまだ若い頃、人間関係に悩み飛び降りた事を時々思い出す。なんとか止めようと必死に手を引っ張ったが、力が及ばず転落させてしまった。救急搬送されたが幸い命に別状はなく、その後繰り返すことはなかった。でも、きっとその後も生きるのは辛かっただろう。そんな姉も数年前に天寿を全うし亡くなった。そしてつい数日前に、仲良くしていた妹のご主人も急逝した。この時は「なんで私ではないのか」と呪った。「今日かな、明日かな、早く逝かせて」と相変わらず願う日々ではあるが、“ももたろう” に行っていることだけは幸せに感じられる。ここに来るようになって、私の人生は変わったかもしれない。こんなにお喋りが出来て、とっても嬉しい。“ももたろう” の見学後、嬉しそうに言われた言葉が耳に残る。「こんなに嬉しそうな笑顔を見るのは久し振り」と。笑うことを忘れていた私に、笑顔を取り戻してくれてありがとう。
今はデイサービスの曜日を増やすことを考えていて、娘に相談しようと思っている。娘はきっと、驚くでしょうね。