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1 ,2 ,3月生まれの方の誕生会を3 月30 日(木)18 時から2 時間で開催しました。誕生月のスタッフも含めた14 名が“デイサービスももたろう” での夕食会に参加しました。海老澤氏の色鮮やかな料理とケーキを囲んで、非日常の素敵な時間になりました。3か月毎に年4 回催す予定です。どうぞ楽しみにしていて下さい。
親の心子知らず、子の心親知らず
2人の息子は、ここ4 ~ 5 年毎週欠かさず、土曜日の昼食を一緒に食べに府中に来てくれる。食べたらすぐに帰ってしまうが、週末のほっとする時間だ。仕事が忙しいのに、“デイサービスももたろう” のクリスマス会や作品展にもよく顔を出してくれている。息子達は、1 年以上前からこの昼食会でも“安心して過ごせる場所” として、ホームを勧めてくる。一人暮らしでは火を出す危険があるとか、真夏に一人で倒れたら危ないとか、とにかく口うるさい。私は「他の人とは生活出来ない。孤独死になっても良いから、ほっといて欲しい」と言うと「そんなこと出来るわけない!」と言って喧嘩になる。ホームに入れ入れって何度も言うから、「お前が入れ!」と言ってやった。近所に住んでいた仲の良い方が、市内のホームに入ってから早3年経つ。その同じホームで、引き続き“ももたろう”にも通え、幼稚園時代のママ友にも会いに行けるのであれば、とは思うがまだ踏ん切りがつかない。
私は、東京下町の芝で5人兄弟の長女として生まれた。近くの日比谷公園が私たちの遊び場だった。戦争初期、父は42歳の若さで肺炎をこじらせて亡くなった。母も後を追うように、飲んだ水が原因で赤痢になり、病院で亡くなった。まだ私が十代前半で、下の妹2人は学校にも行っていない頃だった。下の妹2人は、大阪に住む子供のいない母の長男と次男夫婦の養女になった。兄と女学生だった私と弟の3兄弟は、両国にほど近い母の姉の家に身を寄せた。家は大きな酒屋だったが、戦時下の為商売は出来なかった。その代わり、売り物だった缶詰をたくさん隠してあり、食べ物に不自由しなかった。空襲は毎晩のように繰り返され、そのうち空襲警報にも慣れてしまった。逃げるのも面倒でのんびりしていたら、ひどく怒られた記憶がある。結局は3月10 日の大空襲でお店も思い出の場所も焼かれ、伯父も亡くした。すぐに叔母は大田区久が原に家を買い、全員で移り住んだ。叔母は特に仕事はしていなかったようだが、蓄えがあったのだろう。それでも戦後は食糧難にあえぎ、月に2度程、米を手に入れるために千葉へ買い出しに行った。当時は現金ではなく物々交換が主流で、米と着物を交換していた。特に若い人用の着物に価値があり、箪笥疎開させていた私の着物と米とを交換した。毎回のようについて行ったのは、昼食として“本当の白米” を振舞ってくれたから。こうしてようやく手に入れた米を持って帰る途中、上野駅で大切な米を憲兵に没収されたこともあった。
主人とは、母の母親である“ばあさん” から「結婚するなら九州の人が間違いない」と押されて結婚した。よく九州男児は亭主関白だと言われるが、主人は何事にも寛容だった。息子が2歳違いで生まれ「空気がきれいな所に住め」と医者に勧められたため府中に居を構えた。住んでみてびっくりした。砂埃が激しく、競馬場以外何も無かった。主人は会社の都合で単身赴任が多く、家を空けがちだった。子供2人に手がかからなくなった頃、「ノイローゼになったらいけないから、好きなことは何でもして良い」と言ってくれた。ボーリングやゴルフへ毎日のように行き、芦の湖と箱根にあった別荘を拠点に、隣接のゴルフ場にもよく行った。趣味仲間も出来、楽しい時代だった。息子の幼稚園時代からの仲の良いママ友が、ご主人の仕事でロンドンに住んでいた。海外旅行が今ほど盛んではなかった時代に、1週間の旅程でロンドン・パリに行った。一番良かったのはロンドン。食事は美味しくないが。そのママ友とは、現在に至るまで毎週のように食事会をしていて、50 年来の友人だ。昔は新宿や有楽町でよく食事をし、『三笠会館』のステーキが大好きだった。
73 歳で亡くなった主人は、トヨタの販社社長を勤め、当時トヨタ自動車の社長だった豊田章一郎さんとも仲が良く、一緒にお酒を飲みに歩いていた。退職後の主人は、昔から好きだった中国へよく旅行に行っていた。中国語の勉強も頑張ってしていたが、私は興味が持てず一緒に行った事はない。
その昔、主人が「お金の心配はさせないよ」と言ってくれた通り、お金の心配をしたことはない。愛情持って息子二人を育て、立派な大人になったこと、そしてひ孫の顔も見られて、私は幸せ者だ。好きなように生きてきて、現在88歳。特に病気をしたことも無く、小さい時に離れ離れになった妹や、苦楽を共にした兄弟とも仲良く行き来している。このまま生きていければ一番の幸せだと思う。それでも息子はホームに入れ入れとうるさい。「家では火を使わない」と言っても納得してくれない。つい息子に「お前の顔は見たくないから、もう来るな!」と言ってしまった。心配してくれるのはうれしいが、私に似てわからずやなのが困る。ホームの話は…、行きたくはないけれど…、考えます。