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12月13日(土) クリスマス会 本町一丁目公会堂 10:30 ~ 12:00 見学の来られた方々の多くは、「ここの人たちは、明るくて元気が良いですね!」と驚かれます。毎月の活動報告の裏面でも紹介していますが、決して順風な方ばかりではありません。それでも、今を明るく過ごされています。その一端が「クリスマス会」で垣間見ていただけるのではと思います。ぜひ、ご都合をつけてお出かけ下さい。

幸せを取り戻すために

 5 年前の3 月早朝、大阪に住む甥の結婚式に持参するための祝い袋を、近所のコンビニへ買いに行った。その帰り途、家の近くにある五差路交差点の横断歩道を歩いていた。当時は信号が1つしか付いていない、事故が度々起こる交差点だった。会社や学校に向かう若い人たちと一緒に、私も青信号の最後に渡った。――次にある記憶は、真っ白い天井。何も覚えていなかったが「病院だな」とピンと来た。頻繁に夫の入院に付き添っていたため、風景に見覚えがあったのだ。潤んだ目の娘から、トラックにぶつかりしばらくの間意識不明だった事を聞く。医師から「3日しか持たないだろう」と告げられ、大阪や高松から親戚が沢山来てくれたそうだ。
 長い入院生活が始まったが、寂しくはなかった。毎日のように息子も顔を出してくれ、色々な知り合いが毎日のように誰かしら尋ねてきてくれ、涙が出るほど嬉しかった。今まで頼まれれば、嫌と言わず何でもしてきた。老人会の仕事も10年し、主人が脳梗塞で倒れた時も、定期を買って毎日通った。人のために起こした行動は、いずれ自分に返ってくると実感した瞬間だった。幸い身体に大きな怪我はなく、退院前の再検査で「水脳症」と診断された。緊急ではなかったものの、娘の意向で即手術となった。手術には息子、娘、娘婿、孫の4人が駆け付けてくれ、見守られながら手術室へ向かった。今は、頭から管が通っていて、脳脊髄液を体外に出す装置がついている。
 3か月の入院生活では、今までの生活のことが脳裏に浮かんだ。裁縫の仕事で生計を立てるべく単身大阪に移り住んだ私は、友達が欲しくてたまらなかった。口のうまい男性にのせられ、結婚したのが主人だった。主人は人に使われるのが嫌いで、自営業を営んでいた。5 回ほど事業を潰し、その度に借金ができた。しかも仕事の関係で保証人になり、大きな借金も背負う事になった。そのため家計は火の車。私も無我夢中であらゆる仕事をした。見かねた実家から「子供を幸せにしなさい」「新しい服を買ってやりなさい」「美味しいものを食べさせてあげなさい」と、毎月温かい手紙が届いた。そこには数万円の現金が包まれていた。本当に苦しい生活であったが、親の助けもあり二人の子供たちは大学を卒業することができ、幸せに暮らしている。――幸せな家族や友人に囲まれて、もうこの辺で命が絶っても惜しくはないなと、白い天井を眺め、考えていた。
 水脳症の手術後、1か月で退院。家に帰れるのかと思ったら、1カ月40万円もするリハビリ病院で3ヶ月間お世話になった。しかし、全てが良くなったわけではない。事故か手術かで、頭の回線が2 本切れたらしい。人に「ありがとう」という気持ちが全く起こらなくなった。思った事をすぐに口にし、物事を悪い方、悪い方に考えるようになってしまった。考え出すとイライラが止まらず、夜もまともに寝る事が出来なくなった。幸せを感じる事など、無くなってしまった。“ももたろう” に来る前に通っていた介護施設でも、周囲との関係が悪くなり、結局止めてしまった。その事を“ももたろう” の職員に打ち明けると、「ノートを1冊買ってきてください。そこに、その日の良いことだけを書いてみてください」と言われ、最初はぎこちなかったものの、今も欠かさずに続けている。“ももたろう”に居ると安心する。ここに来てから、私は正常に戻った。
 今が一番幸せ。“ももたろう” の一日が終わるころ、連絡帳に今日の感想を書く時間がある。感想の最後に、必ず添える言葉がある。『ありがとうございました。』