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『ももたろう作品展』 6月13日(土)・14日(日)今年の作品展は、以前何度か開催しました「グリーンプラザ 分館」で行います。一度、公会堂とご案内しましたが、照明や展示場所の関係で「グリーンプラザ分館」に変更しました。展示するための大型作品の制作も始まっています。13日(土)に家族会も同時に開催しますので、ぜひご参加くださいませ。

満州に咲く

 私は満州の大連で生まれ、終戦後に引き揚げ船で帰国した。大連へは父が満州鉄道の技術者として赴任し、一家で移住していた。鉄筋三階建ての社宅に住んでいて、そこは水道や電気、ガスが完備されており、当時としては快適な建物だ。ただ冬は寒く、トイレはすぐに氷が張り、使う度にお湯で氷を溶かしていた。幼かったため、あまり記憶はないものの、日本の倍はあろうかという広い道路を走って、アカシアの咲く海へ行った記憶がある。日本人が多く住む街で、小奇麗な洋風な建物が立ち並び、立派な銀行もあった。子供たちは外でものびのびと遊べ、不自由の無い生活をしていた。
 しかし、先の大戦で日本の負ける気配がしだすと、状況は大きく変わった。外に遊びに行った兄が中国人と喧嘩し、身ぐるみはがされパンツ一つで家に帰ってきた。日本人だとわかると、寄って集って服などを奪いに来るようにもなった。服だけではない。社宅も乗っ取られ、最後の1 年ほどは貧相な木造住宅に移り住んだ。
 私が小学校1年生の時、そんな混沌とした満州で、玉音放送を聴いた。私には何の事かわからなかったが、母は泣いていた。いよいよ満州には居られなくなり、世話役の手引で日本に帰るための引き揚げ船に乗った。途中、ロシア人によってお金や宝石類をはじめ、革製品等を持っていないか検査された。それらは子供の服やリックサックに縫い付けてなんとか持ち帰ったが、身につけられない財産は略奪されるか、全て置いてきた。
 15歳年上の姉と、生まれたばかりの姉の子、他の家族と一緒に乗った船は、人で溢れていた。コンロや最小限の食料はあったものの、栄養が足りず母乳は満足に出なかった。昼夜問わず泣く子を抱いての船旅――。一週間ほどの航海だったように思う。劣悪な環境から、船の中で亡くなる人も多く、初めのうちこそ亡骸はお棺に入れて海に流していたが、お棺も無くなると毛布に包んで海に流された。
 航海の途中、女の子が船に挟まれ片足を失くした。幸いにも治療を受ける事が出来たのか、一命を取り留めた。私達はなんとか無事に日本の港へ着き、皆で列車に乗り換えて故郷を目指した。偶然にも片足を失った女の子とは地元が同じ湯河原で、同じ小学校の同学年だった。私たちは再度一年生をやり直し、戦後日本の生活に馴染んでいった。彼女は小学校を卒業すると東京へ出たのか、姿をみなくなった。非常に美人で頭が良く、気が強い子だった。
 大人になるまで湯河原や小田原で過した。白人の外国人観光客が訪れる観光地だったため、日本にはないカラフルなファッションを見に、よく街へ繰り出したものだ。
 今思い返しても、私としてはひもじい思いもせず、子供らしい生活ができていたと思う。これといって悪い思い出もない。ただ、引き揚げ者の中には幼くして両親を亡くすなど、大変な思いをしている人も多かった中、親は本当に大変な思いをしたのだろう。
 今は、“ももたろう” に週2回通っている。本を読んだり、色々なことを考えたりするのが好き。おしゃれも大好き。主人に夜中起こされるので睡眠不足になっているが、明るく前向きに生活している。何があっても、笑っていれば、それでいい。